2008年2月10日日曜日

柔道王の約束

「もしもし、山下です。あさって、やっと時間がとれそうです…」あれはもう10年以上前のことになるが、金曜日の昼間、編集局に電話がかかってきた。

電話の主は柔道の山下泰裕さんだった。

20年前のロス五輪無差別級で金メダルを獲得した柔道王。当時、無敵の強さを誇ったが、五輪では足をけがし、立つのもやっとの状態で勝ち続け、観戦した人々に大きな感動を与えたことを、今も鮮明に思い出せる。

決勝の相手、エジプトのラシュワン選手が山下のけがをした足を攻めなかったフェアプレーの精神も、たたえられた。今回のアテネ五輪でも、ヤワラちゃんが足のけが、野村選手がわき腹のけがを乗り越え、金メダルを取った。この人たちの強靭(きょうじん)な精神には、脱帽するしかない。

けさ、テレビを見ていたら、あるスポーツジャーナリストが「これまで柔道の試合は勝ち負けにこだわり、注意、警告を取るような姑息な手段がまかり通っていたが、アテネではかなり変わったきた。山下さんが国際会議を通じて、本来の柔道のあり方を熱心に伝えてきた成果が出た」という趣旨のことを話していた。山下さんは国際会議でコミュニケーションできるように、米国に語学留学するなど勉強も積み重ねてきた。

その山下さんが、無敗のまま(203連勝)現役を引退した後、1992年秋、全日本男子の監督に就任した。第二の山下育成が彼に課せられた宿命だった。直後、彼にインタビューを依頼したが、「いまは時間がなくて…。ちょっと待ってください」という返事がきた。

冒頭の電話は、それから半年ほどたった翌年1993年春のことだった。
「山下?」。僕は、一瞬、だれのことだっけと戸惑っていた。

電話の声が、こう続けた。「あさって日曜日の午後、50分なら時間がとれそうなんです。講道館まで来てもらえますか」ここまで聞いて、やっと思い出した。半年前、山下さんに取材依頼していたことを。頼んでいた僕のほうが、すっかり忘れていたというのに、山下さんは律儀な方だった。

そして日曜日の午後、講道館で会った。「話慣れてないからノドが渇いて…」。山下さんはスポーツドリンクを飲みながら、指導者としての決意から子育てまでを話してくれた。

「自分の思いが選手に伝わらなくて自信を失ったり、自己嫌悪に陥ったり…。指導者としては世界のヤマシタじゃないですから。実績もたいしたことないし、現役時代以上に勉強して視野を広げないと」

「油断」という言葉が大嫌いだとも言っていた。

「(現役時代)勝っても勝ってもまだ欲があった。理想とする柔道はもっともっと上にあると思った。ところが引退した途端、『よくやった。自分を褒めてやりたい』。もし、現役時代にそう思ったら、それで終わりだったでしょう」

「決して諦めるな」「決して安心するな」が勝負哲学だったという。

さて、そんな勝負の鬼も家庭では、よきパパ。年間10日しか休みがない殺人的スケジュールをこなしているが、手帳にところどころ「家サ」の文字が…。

これは「家庭サービス」の略だった。この「家サ」の日には、絶対、ほかの予定を入れないようにしているのだ。実はこの日が大切な「家サ」の日だった。「ええ、朝7時半に起きて近くの公園に子供2人を連れていって、昼まで泥んこになって遊ばせていたところなんです」。

それまでの厳しい表情が、このとき、ふっとなごんだ。僕は、「気は優しくて力持ち」を絵に描いたような人と記事に書いた。

取材が終ると、山下さんはホッとした笑顔を浮かべた。「ずっーと気になっていたんですよ。なかなか時間が取れなくて、申し訳ないなって。これで約束を守れました」

僕は、感動した。これだけ忙しいなら取材依頼の1つや2つ、無視するのが普通だろう。日程の調整がつかないまま年を越し、僕も「しょうがない、諦めよう」と思っていたのだ。

でも、山下さんの対応は違った。僕は彼に人生を教わった気がした。
「約束は守る」。これがいかに大切かを。
(2004/8/18)

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