2008年2月10日日曜日

いのちの素顔

プロ野球に新規参入する決意を示すなど、何かと話題の若き起業家、堀江貴文ライブドア社長がまたまたひと騒動起こしている。
最近出した著書「稼ぐが勝ち」に、「人の心はお金で買える」という記述があり、賛否両論、波紋を呼んでいるのだ。当の本人は、自らのブログの中で「読んで適当に解釈してもらえれば、と思います。でも、お金は嘘をつかない・お金で人は豹変するというのは事実だと思います。まあ、そういうことをキャッチーに書いてみた感じです(ゲゲっ?なんてこと言うんだって思うでしょ?)」と書き、波紋を楽しんでいるふうでもある。
僕は、「お金で買えるのは心のガラクタだけだ。そんなもの買いたくもないし、ほしくもない」と思う。

久しぶりに、本箱から思い出深い1冊の本を取り出してみた。

「いのちの素顔」(有田一寿著、教育新聞社刊)。

僕が新聞記者になったのは20年前の1984年だった。
学生時代、遊び回っていたのでまともな就職先がなく、「教育新聞社」というちっぽけな専門紙にもぐりこんだ。

運がよかったのは、この年から中曽根康弘首相(当時)が明治維新、戦後に続く「第3の教育改革」のキャッチフレーズのもと、首相直属の臨時教育審議会(臨教審)というものを発足させたため、「教育問題」に社会的な視線が集まったことだった。

一般紙も臨教審の動向を逐一、1面で報道した。僕は、朝日、読売などの大新聞のエリート記者に混じって取材に駆け回り、彼らが書く記事を手本にしながら「記者ポッポ」生活をスタートさせた。

この時代に、最初にお会いしたのが、有田一寿さん(2000年死去)だった。

有田さんは、学歴こそ東大卒のエリートだが、幼少のころ両親に死に別れた苦労人だった。学校の先生(校長)を経て実業界に転じ、さらに参議院議員も経験した。
参議院時代は、河野洋平さんらのいる新自由クラブに所属し、若い河野さんらの後見人的存在でもあった。また、高潔な人柄、幅広い教養から「新自由クラブの良心」とも呼ばれた。

臨教審では、初等中等教育(幼稚園から高校まで)の改革を担当する第3部会の部会長を務めていた。このころ僕は取材で屈辱を味わうことが多かった。一般紙の記者の前では機嫌よく対応する人が、僕の取材になると、とたんに「どこの記者だ?」と居丈高になり、ロクにしゃべってくれないことがあった。ある文部事務次官OBには「もっと勉強してから来なさい」と門前払いされた。

だが、有田さんは違った。だれの前でも同じように熱っぽく、僕のような新米記者にも理解しやすいようにかみくだいて説明してくれた。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」。有田さんを見て、そんな言葉を思い出した。そして、自分にもこう戒めた。「威張らず、おごらず、へつらわず」


取材場所は、赤坂の事務所が多かった。インタビューを始めると、当時、68歳か69歳の高齢だったにもかかわらず、有田さんはだいたい3時間くらいはしゃべり続けた。僕はいつも取材が終わると、ぐったり、フラフラになって会社に戻ったものだった。

僕は、今でこそどんな偉い人だろうが、どんな美女だろうが、まるで緊張しなくなったが、新米時代はあがり症だった。有田さんの前でも緊張しまくっていた。秘書が持ってきてくれたコーヒーを口にしようとすると、手が震えてカップがガタガタする始末。だから、いつも一口も飲まないで残していた。

有田さんが記者との対応について、こんなことを話してくれたのを覚えている。

「秘密にしたいことがあるとするだろう。これだけは絶対隠したいという部分以外は、全部しゃべる。隠し事はいっさいないと思わせるのがコツだ。下手なやり方は、なんでもかんでも隠そうとすること。それだと何か隠しているとわかってしまう。すると記者もプロだから必死に暴いてくる」

ふーん、なんでもオープンにしゃべっているように見せて、隠すところは隠してるのかと僕は感心した。

こんな風にして何度、有田さんにお会いしただろうか。

1年以上たったある日、取材を終え、さあ帰ろうとすると、有田さんが「ちょっと待って」といいながら、僕の前にドサッと原稿用紙の束を積み上げた。

「これまでに書き溜めた教育に関するエッセーがこんなになった。十分、本になる量だろう。君のところで出してほしい」

そう、頼まれた。ありがたすぎる話だった。
当時の有田さんは、「教育の自由化」を言い出した天谷直弘第一部会会長(首相側近)らと真っ向からやりあうことが多かったせいもあって、臨教審メンバーの中でもっとも発言が注目される時の人だった。

大手新聞社だろうが大手出版社だろうが、どこでも、有田さんの本なら喜んで出しただろう。よりによって名もない専門紙からなぜ出したのか。

たまたま、本を出そうとしたときにやってきたのが僕だったからか、それとも毎回毎回、3時間も話をじっと聞き続ける僕のことを、孫のようにでも思ってくれたのか、今となってはわからない。

出版パーティーは盛大だった。三笠宮崇仁殿下を来賓にお招きしたのをはじめ、森喜朗ら歴代文相、有力文教族、臨教審委員らが勢ぞろいした。また、有田さんはクラウンレコード会長も兼務していたため、所属の芸能人らも華を添えた。
僕は、着物姿で来ていた五月みどりさんの美しさにポーっとなり、ちゃっかりツーショットで写真をとってもらい、宝物にした。

臨教審以降は、僕も別のメディアに転職したこともあって疎遠になっていた。
有田さんも病気で倒れ、以前のようには活動していなかった。

久しぶりにお会いしたのは96年、たしか「民主党」が誕生したころだった。新自由クラブの失敗を踏まえて、二枚看板の鳩菅にアドバイスを、というのが取材の趣旨だった。

病後で足元がおぼつかなかったが、熱心な話ぶりは健在だった。このときも帰ろうとすると3時間が過ぎていた。
驚いたのは、本題の取材が終わって有田さんがこう言い出したことだった。

「僕には夢があってね…」

その夢とは「日本を、徳を輸出する国にしたい」ということだったが、80歳になってもこれだけとうとうと夢を語れる人がいるのかと感動した。

冒頭、話題にした堀江さんはいま注目の経営者だが、「人の心はお金で買える」だの「100億儲ける仕事術」だの、口にする言葉がちっぽけすぎる、と思う。

有田さんには、人間には2種類いると教わったような気がしている。「本物」と「ニセモノ」の2種類だ。僕は「本物」を目指したい。
(2004/8/29)

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