2008年2月11日月曜日

橋本龍太郎元首相死去

「橋本龍太郎元首相死去」のニュースを知りました。人の一生とは、まさしく一幕の夢のようなものかもしれない、と妙に感傷的になりました。

ご冥福をお祈りいたします。



橋本元首相が、自民党総裁選に出馬したとき、政治担当に配置換えになりました。
早朝、麻布の自宅前で、僕ら記者団が囲みインタビューをしました。「龍ちゃん」とベテラン記者に呼ばれていた橋本さんは、小柄で、声もすんごく小さい。それだけに、橋本さんを囲むとき、すぐわきのポジションを確保したいところでしたが、傍若無人なテレビカメラが割って入ってきたため、数人の記者の後ろから耳をそばだてて必死にメモをとろうとしていました。
でも、ほとんど聞こえませんでした。

「困ったなあ。これじゃ記事を書けないじゃないか」
ところが、取材が終わると、担当記者たちが「じゃ、メモあわせしましょう」と集まってきました。

メモあわせ。これが、政治記者たちの慣習のようでした。
だれが何をしゃべったのか、一字一句、各社の担当記者が集まって確認するのです。政治家の発言では、誤報は許されないからでしょう。

同時に、記者クラブは「仲良しクラブ」であることの象徴かもしれません。

でも、このときの僕は、「助かった!」とありがたかったですね。

橋本政権のあいだ、僕は首相官邸の記者クラブに常駐していました。会社にはほとんど顔を出さず、官邸と自宅の往復の毎日でした。連日、官房長官や官房副長官の記者懇(だいたいオフレコ)に出席しながら、スクープを探してました。

橋本政権を支える大番頭が、梶山静六官房長官(故人)でした。
田中角栄元首相が、「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と評したエピソードは有名ですね。
僕ら番記者にとって、梶山さんは怖い存在でした。古武士然としてました。

ギンギンに冷えたビールが大好物だった梶山さんは夜、僕ら番記者らと酒を飲みながら、完全オフレコ懇談を時々、催してくれました。
懇談の場所は、官邸の中だったり、赤坂の料亭や、中華レストランだったりしました。最初の懇談のとき、偶然なのですが、僕は梶山さんの隣に座っちゃっいました。みんなは遠慮して遠くの席から座っていたようでした。新参者の僕が、梶山さんの隣に座るのを見たとたん、幹事社だった日本テレビの記者が、あわてて耳打ちをしにやってきました。

「いいですか。梶山さんの前で小沢一郎さんの名前は絶対出さないでください!!」

なるほど、自民党を飛び出し、新進党をつくった小沢さんは橋本政権の政敵だからね。
「ああ、大丈夫、わかりましたよ」

ところが、懇談のさなかで、梶山さんのほうから小沢さんのことを話題にしていたから、配慮する必要はなかったんですけどね。


ちなみに、この完全オフレコ懇とは別に、毎日、午後の記者会見のあと、官房長官室で20~30分ほど番記者との懇談がありました。こちらは、完全オフレコではなく、「官房長官」という名前を出さない決まりがありました。よく「政府首脳」とか「政府筋」などという表現がありますが、あれが、この懇談での発言です。

梶山さんは、橋本首相のことを、こう評してました。

「壊れた自動車」

ブレーキもハンドルも壊れている。でも、エンジンはある、走ることはできる、と。
梶山さんは多分、「ハンドルとブレーキは俺が担当する」と思っていたのでしょう。


橋本さんは、ポマード頭がトレードマークで、キザだったので、嫌う人も少なくありませんでしたが、そばで見ていると、結構正直な人だったという印象があり、僕は嫌いじゃなかったですね。

省庁再編やら、ペルーの大使公邸占拠事件やら、住専問題やら、橋本政権時代のあれこれが、思い出されます。

前回の選挙前、日歯の贈収賄事件にからんで政界引退に追い込まれ、最近はすっかり「過去の人」になってました。


「月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也」(松尾芭蕉)。

(2006/7/1)

長妻昭さん

最近は、国会の爆弾男といったら彼のこと。
民主党の長妻昭さん。
けさ、久しぶりに、議員会館でお目にかかりました。

長妻さんと僕は、ともに昭和35年生まれ。
かつて主宰していた「35の会」(昭和35年生まれが35歳になった年につくった)は、長妻さんとの出会いがきっかけでした。


長妻さんは、僕の顔を見ると、
「懐かしいですね。35から、もう45ですね。あの会は、たしか10年くらい続いたんでしたよね。シンポジウムもやってませんでしたっけ?」

僕も忘れかけていましたが、35の会では、「われらはみ出し宣言」「会社が倒産した日」というテーマで2度、シンポジウムも開催しました。

「そうそう、あのときのシンポでは佐野美和さん(元八王子市議)と会いましたよ」と長妻さん。

35歳のある夜、長妻さん、ジャーナリストの山村明義さんと一緒でしたが、偶然3人とも昭和35年生まれの同い年でした。
「おれたち、35歳か。このくらいの年って大事な時期なんだよなあ」
あの夜、3人とも、真剣に将来のことを語り合いました。

長妻さんは、そのとき、「政治家になる」と宣言していました。僕は、「35の会」の旗揚げを決意しました。

長妻さんが新党さきがけから初出馬したのは1996年のこと。地盤、看板、かばんのない長妻さんが政界入りしたのは、2000年の選挙のとき。当時の森首相の「神の手」失言で、自民党が劣勢になりましたが、長妻さんは粕谷茂さんという元国務大臣の大物を破っての堂々の当選でした。

以来、当選3回。
いまや、民主党を背負って立つ存在に成長しています。

国会での活躍から、全国に長妻ファンが増えているようです。弊社の身近にもファンがひとりいることが判明しました。

将来の首相だ!! がんばれ、長妻議員!!

(2006/6/30)

荒川龍さんにエール!

話題作「レンタルお姉さん」(東洋経済新報社)の著書、荒川龍さんと先日、数年ぶりに再会しました。
著書のヒットのお祝いと、僕の独立の報告(昨年夕刊フジを辞めたことを知らせてなかった!)が目的でした。
荒川さんの著書の書評が、週刊文春や毎日新聞などに掲載されているのを見たとき、うれしかったですね。一時期の「戦友」みたいなもんですから、彼ががんばっていると、自分もがんばろうと思います。

荒川さんのブログ、荒川龍@スチャラカで、僕のことを以下のように紹介してくれました。




Uさんが立ち上げた会社は、1億総億万長者プロジェクト(株)。ちょっとネーミングはどうかと思うが、HPはなかなかカッコイイ!今流行のSNSによる海外株を中心とした情報発信などを手がけていくらしい。ほんわかした人柄と笑顔で、向き合う人を無意識にゆるめてしまえる人だから、その社名もやっぱり「らしい」かもしれない。

会社設立以降、持ち出し続きだというのに、終始にこやかな笑顔を絶やさないUさん。しかも、拙著ヒットのお祝い名目で(ヒットとまでは言えないんですけどね・・・m(_ _;)m、六本木ヒルズで昼食までご馳走になってしまった。も、も、申し訳ございません。まさに「人の振り見て我が振り直せ」で、けっして楽観視できる状況ではないのに、他人を祝える心の余裕を保てるカッコ良さに、心打たれた。なかなか自分は真似できないとは思いますが(^^;)



自分のことというのは、わからないものです。
「ほんわかした人柄と笑顔で、向き合う人を無意識にゆるめてしまえる人」
ハタからはそう見えるんですね。実際は、かなり違いますけど(苦笑)。

荒川さん、激励ありがとうございました。

(2006/6/26)

ハナちゃん、や~い

兜町で会った中で、もっとも強烈で、もっとも楽しく、もっとも気のあった人が、ハナちゃんこと、華小路彩(はなのこうじ・あや)。だれが名づけたか(って本人が言っているんだけど)、別名「カブトチョー娘。」。きょう、メールがきていて、びっくりするやら、うれしいやら。近く、再会したいものです。


なお、昨日ベトナムから帰国しました。


かつてハナちゃんについては、次の記事を書きました。

「伝説の女相場師 夢はデッカク10億円」
との大見出し。(夕刊フジ「おもしろ倶楽部」2002年2月5日掲載)。


だれが呼んだか、「カブトチョー娘。」。10年前、元手600万円を1億円に増やし、2年前、ネット株で1億6000万円を支配(しかも元手200万円!)IT長者。だが、大儲けするたびに天狗になって大損し、すぐにスッテンテンになる。それでも、ちっともめげません。目指すは「10億円」。さあ、波乱万丈!! 天国と地獄を行き来したハナちゃんのお金物語の始まり、始まり…。
華小路彩(はなのこうじ・あや)。京都市出身。年齢は「絶対、ヒミツにしてえ!」と絶叫されたので一応ナイショ。
実は昨年1月の本紙連載「株名人のマル秘テク」に登場してもらった。メチャクチャ、おろしろかったので意気投合し、2人で「10の会」(10年後、10キロやせる、株で10億円儲ける、が趣旨)もつくった。しばらくしてから「シゲ、わたし、自伝を書くわ。シゲがわたしのこと、おもしろいって言うから」。で、生まれたのが昨年暮れに出版された『波乱万丈 お金物語』(TBSブリタニカ)だ。
お金大好き少女だったハナちゃん、小学生で「10万円」、高校生で「100万円」を貯め、上京。赤坂でホステスなどをしながら、23歳で「1000万円」達成。次は「億」と目標を定めた矢先、原宿で占い師の「カネゴン先生」から、「あなたも株をやってみたら」と勧められた。風采の上がらないカネゴン先生だが、株でかなり儲けていたらしい。
そして26歳のとき、人生1度目の「大勝負」に打って出た。ホステスを辞め、証券レディーにトラバーユしたときに知り合った二枚目の「ビビビ」が、店頭に新規公開する機会メーカー「THK」のことを「すごい株だ」と興奮して話すのを聞いたからだ。
この株を公募で買うには1730万円が必要。ハナちゃんの軍資金は600万円しかない。で、どうするか。ナント、街金の高利貸から1200万円を借金して、公募に申し込んだのだ。人気株なので、公募で当たる確率は数%しかないのだが、なぜか「絶対当たる」と思い込むのがハナちゃんのすごいところ。そして実際に当たり、おまけに株価は青天井の上げっぷり。
翌年、ついに夢の1億円を支配したはずだった。だが証券マンにおだてられるまま、バクチ的な仕手株、オプション取引に手を出し、「1億円」が幻となるのにさほど時間はかからなかった。
それでも、今度は「600万円を1億円にした27歳女性の体験」を出版、ベストセラーに!
新聞、雑誌から連載依頼がワンサカやってきて、講演料1回50万円のセンセイになった。が、それもつかの間、低迷相場で株で食えなくなり、「プリンちゃん」「モモちゃん」などの源氏名で年増キャバクラ嬢として生活する日々へ。
いやはやジェットコースターみたいに浮き沈みが激しいが、女神はまたも微笑むのだ。4年前、なけなしの200万円を、暴落していたベンチャーキャピタル「ジャフコ」に投じたところ、1年後には10倍以上の2500万円に。
そして、人生2度目の「大勝負」へ打って出る。99年末、東証マザーズに鳴り物入りで上場した「インターネット総研」の公募(1株1170万円)に応募したところ、2株、当たったのだ。このときも300倍の倍率だったが、「絶対当たると思ってた」。
1か月後、この2株は総額1億6000万円になっていた。ああ、ミラクル! この勢いで突っ走ろうと考えたハナちゃんは、次にカラ売りに手を出した。常識外れの超高値にあった「光通信」をカラ売りしたのだが、ナント、これが大外れ。1日1600万円も損をする日があり、かくして、ハナちゃん、再びスカンピンになってしまったのだ。
でも、「全然へこたれてないの」。こんどの本の売れ行きも上々で、「目標はハリー・ポッター」と豪語するのだ。
「シゲ、明るく元気にしてると、必ず福の神が見初めてくれる。2度あることは3度あるでしょ。あと10年のうちに必ず波がくるから、そのときには一気に10億円よ、オーホホホ」

(2006/5/25)

母との別れ

乳がんの肺転移で長く病床に伏していた母が7日午後9時15分、肺炎のため入院先の北海道小樽市の病院で亡くなった。69歳、あと2週間ほどで70歳の誕生日を迎える直前だった。
母のことは以前のブログ「『ダメ!』と言われてメガヒット」で何回か書いてきた。
「あと半年」(2005年12月1日)
「奇跡」(2005年4月19日)
「再・言わぬが花」(2005年4月18日)
9日お通夜、10日告別式、13日初七日、15日納骨を済ませたものの、残務整理などに追われる毎日。悲しんでいる暇がないようなスケジュールだが、もともと母のがんが再発してから5年、別れの日がいずれ来ることは覚悟していた。
そして、この5年、いつもこう思っていた。
「おかあさん、こんなに苦しい目に耐えているんだから、生まれ変わったら必ず幸せになれるよ」


亡くなる前日の朝、主治医から「危篤です」と連絡があり、急いで病院へ向かった。母はそのとき、目を閉じたままだったが、意識はあった。ただ、もはやしゃべることはできない状態だった。酸素マスクをしていたが、いつ息が止まってもおかしくないほどの、荒い、苦しい呼吸を繰り返していた。あまりの苦しみぶりに、いっそのこと、酸素マスクをはずして早くラクにしてあげたいとさえ思った。
僕の後、子供たち(母からは孫)4人が夜、病室に到着した。
「おばあちゃん、おばあちゃん!!」
子供たちが何度も、何度もこう叫ぶと、それまで閉じていた母のまぶたがはじめて開いた。そして、手足を動かしだした。言葉にはできないが、孫が来たことがわかったのだろうし、起き上がりたいと必死だったのだろうと思う。

主治医はこの日、僕に向かって「あの呼吸の状態をごらんになりましたか。今夜は越せないでしょう。残念ですが…」と宣告していた。だが、母は頑張った。夜を越え、朝を向かえ、そして昼、夕方、2度目の夜…と。最後まで、ずっと頑張り続けた母らしかった。

父と早くに離婚し、母ひとり、子ひとりで暮らしてきた。母の闘病生活のあまりの苦しさ、辛さを間近で見ながら、何度も「最後の親孝行。一緒に死んであげようか」という思いにとらわれたことがあった。
だが、見舞いに母のもとに行くと、母は「絶対、病気になんか負けるものか。頑張る」といつも前向きだった。僕も「そうだよ、絶対よくなるさ。負けちゃだめだよ」と激励した。仮に母が「こんな苦しいのはいやだ。もう死にたい」と漏らすような人だったら、僕は一緒に死んでいたかもしれない。だから母は僕の命の恩人でもある。

昨年の11月、主治医から「肝臓に転移している。あと半年」と宣告されていたから、母と会えるのも、あとわずかとわかっていたものの、まさか1月とは思ってなかった。
最後のお正月になると覚悟していたので、大晦日、元日と母を見舞った。このとき、母は好物の寿司を1人前、ペロッと平らげていた。「まだまだ、ごはんを食べられるから大丈夫」と思っていた。5日に見舞った母の妹によると、「いつもより大声で話していた。正月には、シゲがたいそう、親孝行して帰っていったとうれしそうだった」という。だが、それからわずか半日で急変してしまったのだ。

僕が夜、食事のため病室を離れた瞬間に、最期のときがやってきた。あわてて看護婦さんからの連絡を受け、病室に戻ると、母は虫の息だった。
「おかあさん、おかあさん、死んじゃダメだよ!」
この日が来るのを覚悟していた僕だったが、さすがに涙があふれてきた。母は僕の問いかけにかすかに反応したが、それも5分ぐらいだったろうか。呼吸をする間隔がだんだん長くなり、最後に2度、苦しそうに息をしたあと、ついに口を開かなくなった。
母との別れのときがやってきた。

ここ1年ほど、ずっとつけていた酸素マスクをはずしてもらった母は、それはそれは、安らかな表情だった。
「おかあさんは、よく頑張ったよ。すごいよ、立派だよ」

亡くなった翌日、湯かん(棺に入れる前、白い長じゅばん、着物、羽織に着替えさせ、化粧をする儀式)のため自宅にきた葬儀社の人が、あとで「あんなにきれいな顔のおばあさんは見たことがありませんでした。化粧も紅をすっと引く程度で十分でした」と言っていた。闘病生活中は、処方されたステロイド剤の副作用で、顔も醜くぶくぶくに太ってしまっていたが、息を引き取ってから、すーっと元の顔立ちに戻っていた。
担当してくれた看護婦さんは「いつも明るくて、『さあ、早く治療しようね』って前向きで、頑張り屋さんだった。だからね、尊敬してたんです」と話してくれた。母は寿命には負けたが、病気には決して負けなかった。

母と最後に話をしたのは、亡くなる6日前の1日の午後。東京に戻るため、病室を後にしようとしているときだった。

「会社はうまくいってるのかい。仕事、頑張りなさいね。おかあさんも応援してるから。陰ながらだけどね、オ・ウ・エ・ンしてるからね」

母の最後の言葉を、僕は生涯、忘れない。

(2006/1/17)

ご冥福をお祈りいたします

最近、訃報が相次いでいる。
けさは、仰木彬監督の急逝が報じられていたし、夜には本田美奈子さんの追悼番組もある。
もうひとり、僕のまわりでお亡くなりになった方がいた。
関口哲平さん。がんで闘病生活を送り、12日朝、ご自宅で亡くなったという。享年56歳。




関口さんは1949年生まれ、早大卒。出光興産退社後、アントニオ猪木、野末陳平、大前研一、舛添要一ら各氏の選挙参謀として活躍した。
僕が関口さんと初めてお会いしたのは、10年前、たしか関口さんは都知事選に出馬した大前さんの選対本部長(役職は記憶があいまいだが)だった。第一印象は、とにかく押し出しの強いタイプ、に見えた。
このころ、オウムがポアの対象として大前さんの名前を挙げていたこともあって、大前陣営では私設のボディーガードを採用していた。選挙戦の後、関口さんから「このボディーガードがおもしろいヤツなので一回、会ってくれ」と言ってきた。
ボディーガードは元警視庁の機動隊員だった。高校時代はレスリングで国体にも出場した、ものすごいごっつい体型だった。「これじゃオウムも逃げ出すよなあ」と思ったが、それはさておき、彼は最近は占いを正業としているという。占いの道に入るきっかけは、警視庁時代に鑑識で多くの死体などを見てきて顔相、手相などを研究したからだった。
「へえー、おもしろそうだな」
いちおう、彼の経歴や話にウソがないかどうか、裏を取り、調べた結果、信頼できる人だったので、「人間鑑識」というタイトルで連載をお願いすることになった。
彼の名は、大清水高山さん。
僕は以来、大清水さんにお世話になりっぱなしだ。記事のネタをもらったこともたびたびあるし、自分自身の人生相談(?)に乗ってもらったこともある。つい最近は、ある女性歌手のデビューに力を貸してもらった。
いま、大清水さんは高円寺で「占いの館 パワーハウス」を経営している。たまには顔を出したいと思っている。

この大清水さんとの出会いをつくってくれたのが関口さんなのだ。関口さんは政治の世界を去ると、作家に転身した。
自らの経験をもとにした「選挙参謀」で作家デビューし、「愛犬マックス」「ハート・ビート」などを執筆した。また、テレビの構成作家として「モハメド・アリの真実を追う」「青木功・緒方拳、大地を闊歩」などの番組をプロデュースした。
がんを患っていると聞いたのは、いつのことだったろうか。今年夏、大清水さんに会ったら、「関口さんは不死身だよ。がんを克服したらしいよ」と言っていた。
たしかに一時、体調をかなり取り戻したようだった。
「しあわせになろうよ 余命6カ月を克服した私のがんサバイバル50の方法」なる本も上梓していた。

今年になってから何度かメールをいただいたこともあった。最後の最後まで精力的な人だった。
享年56歳は、早すぎる。
でも、かつてアニメ「巨人の星」では、坂本龍馬の生きざまを取り上げ、「男なら最後まで歩き続け、倒れるときは、前に倒れたい」と伝えていた。これを思い出すような関口さんの最後だった。
人生の幕の閉じ方としては、なかなか見事だったと思う。

(2005/12/16)

歌手デビュー

昨夜、新人歌手のデビューライブに行ってきた。新人といっても、10代のジャリタレではなく、それなりにしっかりとした人生経験を積んだ女性シンガーである。
彼女の名前はcherry(チェリー)。

知り合ったのは今年初め、仕事関係の知人の紹介だった。
彼女には、見失っていた夢があった。
それは歌手になることだった。
20歳ぐらいのころ、雑誌にスカウトされ、モデル活動などを行っていた。ある人気ユニットのメンバーがひとり抜けることになり、その後任として、彼女に白羽の矢が立った。メジャーデビュー寸前だった。
ところが、いくつかの不運が重なり、ユニットが空中分解してしまう。
いつしか彼女は歌の道をあきらめ、アルバイト暮らしを続けるようになった。
出会ったのは、そんな時期だった。

彼女は、こう繰り返していた。
「自分の人生はいつも中途半端だった。このままだと、わたしの人生は何も残らない。中途半端にしてしまったけど、歌うことが好き。うまくいくかどうかではなく、もう一度、全力で歌と向き合ってみたい」

最初は、酒を飲みながら、フンフンと聞き流していたけど、だんだん彼女の真剣さ、必死さに、こちらもキチンと向き合わないといけないと思うようになった。新聞記者として音楽関係者、芸能関係者にパイプがないわけでもない。とくに、「翼の折れたエンジェル」の大ヒット曲で知られる中村あゆみさんとは、別件の取材で親しくなっていたし、その関係者とも長い付き合いだった。

わたし自身はたいしたことをしたわけじゃない。頼りになってくれそうな人を紹介し、2度ほど、関係者と面談するのに同行した程度だった。

彼女は、みちがえるように変わった。「結果がどうなるか、わたしに歌の才能があるかどうかはわからないけれど、やるだけのことはやってみたい」と目を輝かせていた。ボイストレーニングに通い、自作の曲のレコーディングにまでこぎつけた。先日、弊社のオフィスにも遊びにきてくれ、3曲入りのCDをプレゼントしてもらった。

その彼女のデビューが、昨夜だったのだ。
舞台は、都内のライブハウス。
2、30人入ると満杯といった小さなところだが、彼女の夢はここから始まるんだ。最後列に立って聴いていたわたしも、感無量な気持ちになった。
彼女が熱唱したのは5曲。
for you…
サクラshower
Are you allright?
ENDLESS
message from…

わたし自身は、とくにサクラshowerが好きなので、この曲を聴きながら、ジーンときた。

じつはライブの途中、心無い人たちによるハプニングがあった。でも彼女は、それを乗り越え、しっかり最後まで歌いきった。夢に向かって歩き始めた彼女の意志の強さを改めて感じた。

さっき、別の関係者から、このハプニングでショックを受けているらしい、と聞いたが、なにもショックを受けることなんかないさ。
大事なのは、過去よりも今。
今、夢に向かっている、という姿勢が大事なんだと思う。

彼女のステージはすばらしかった。
感動した。
また、聴きたいと思った。

今回は小さなライブハウスだけど、やがて、武道館や東京ドームをいっぱいにする日がくるかもしれない、そんな大スターになってもおかしくないと、彼女の歌声を聞きながら夢想した。

だから、負けるなcherry!
俺たちファンがついている!!

こちらからサクラshowerを聞くことが出来ます。

http://tmmp.co.jp/blog/music/cherry.m4a

(2005/11/24)

山口もえ

タレントの山口もえがIT系の若手社長と結婚するというのが最近、芸能ニュースで話題になった。

お相手はZEELの尾関茂雄社長(30)。報道によると、年収数億円とか。
じつは、彼には取材で2度、会ったことがある。

最初は、たしか2000年の春ごろだった。「IT革命の革命児たち」という連載を担当し、ビットバレーと呼ばれた渋谷のベンチャー企業の若手社長らのところを取材して歩いた。
ちなみに、連載1回目に登場してもらったのが、いまTBS買収で話題の楽天・三木谷浩史社長だった。エネルギッシュにITの未来を語ってくれたが、そういえば、あのとき、三木谷さんはTシャツ姿だった。ホリエモンだけがTシャツだったわけじゃないのだ。

話を戻すと、尾関さんはたしか「アクシブドットコム」という懸賞サイトを運営する会社を経営していた。
わたしはネットとか、パソコンにうとかった。「マウスって?」「クリックって?」。ベンチャー起業家たちとしゃべると、用語からしてチンプンカンプン。
で、彼らはすぐいやな顔をした。
「どうせ、おっさんにはしゃべったってわからないよ」と。
そんな中、尾関さんは比較的、よくしゃべってくれた人だった。ベンチャーの経営者というと、「どんな熱血漢なのかな?」と思っていたが、彼は肩に力の入っていないというか、けっこう淡々としたタイプだった。

この翌年、もう一度会った。私事だが、子供が生まれた日だったので、よく覚えている。
会社の場所は別のところに移転していた。以前は、ほんの数人しか入れない狭さだったが、ずいぶん広いところに変わっていた。
「順調なんだなあ…」
ITバブルがはじけ、消えていった若者も多かったが、彼は生き残った。

「あの彼がねえ…」。新聞記者だったらスクープのチャンスだったかもしれない、と感慨深いものがあった。

(2005/11/10)

100万回のありがとう

きのう、きょうと、大手出版社2社に行ってきた。いくつかの企画を提案したり、先方から打診を受けたりした。年末は忙しくなりそうだ。


きのうは、経済誌中心の出版社へ。夕刊フジ時代の後輩が昨年、引き合わせてくれた同社の部長さんとランチを同席する。
わたしは、いつもスーツの胸に、ある人からもらった「バッジ」をつけているのだが、はじめて「ああ、○○さんからもらったんですね」とズバリ言い当てられた。

ある人とは、竹田和平さん。
赤ちゃん用の「たまごボーロ」というお菓子メーカーのオーナーだが、いまでは日本一の個人投資家としていろんなメディアに登場している。なにしろ、四季報をみると数十社の大株主として名前が出ている。おそらく、株の資産だけで200億円前後はあるはずだ。
わたしは、竹田さんに2、3年前にお目にかかった。竹田さんの存在をみつけた経済ジャーナリストが本を書いていて、それが大変興味深かったからだ。

取材のアポをとり、名古屋に向かった。
ところが、竹田さんは株の話になると、急に黙り込んだり、はぐらかしたりする。あまりしゃべりたくないみたいだった。でも、それじゃ、せっかく取材にきた意味がない。3、4時間は粘り続けた。まあ、それでなんとか株がらみのインタビューらしくはなった。

竹田さんは自分と同じ生年月日の赤ちゃんに純金バッジをプレゼントする活動を毎年、続けている。プレゼントを受け取った赤ちゃんも両親も喜んでくれる。一番のプレゼントは、多分純金の価値じゃないと思う。この日に生まれてきてよかった、運がいいなあとの思いを赤ちゃんたちにプレゼントすることができる、そのことなんじゃないだろうか。こうした活動のことを竹田さんは記事にしてほしいと希望していた。もちろん、その希望も受け入れることにした。
すると、竹田さん、「君は違う誕生日だけど、これ、あげるよ」と、わたしにも純金バッジをプレゼントしてくれたのだ。以来、わたしはこのバッジを投資のお守りとしてずっと身につけている。

竹田さんとのインタビューで忘れられないのが、「ありがとう」の言葉。
インタビューの合間に、この言葉を何度、竹田さんから聞いたことか。
「わざわざ東京から来てくれてありがとう」
「わたしの話を聞いてくれてありがとう」
「バッジをもらってくれてありがとう」…。

竹田さんは会社の経営でも、投資でも、そして人生でも、成功するための秘訣は「ありがとう」の言葉だと言う。
竹田さんは手帳に、なにやら目標を書いているようだった。対面して話を聞いていたが、途中で思い切って竹田さんの隣に座り、手帳を覗き込んでみた。竹田さんは照れくさそうにパッと手帳を閉じかけたが、わたしは見逃さなかった。そこには今年の目標として「100万回、ありがとうを言う」と書いてあったのだ。

「100万回」…。

ええっ、すると1日に3000回もありがとうを言わなくちゃいけない計算。1日に3000回というと、だいたい1分に2回も!
竹田さんは、あの小さなたまごボーロひとつひとつにも、「ありがとう」と言っているんだそうだ。きっと、人(やモノ)に感謝の気持ちを持ち続けると、まわりまわって自分自身に「ありがとう」が返ってくる、ということなんでしょう。

さて、みなさま、このブログをお読みくださいまして、ありがとうございました。ありがとうございました。ありがとうございました。ありがとうございました…(と100万回)

(2005/11/1)

初代カブドル

マネックス・ビーンズ社内でムック本のインタビューを受けたときの続き。
わたしの取材が終わろうとしたとき、もうひとり、会議室に入ってきました。
「あれ? 萌絵ちゃんじゃないの。いやー、久しぶりですね」


6月に会って以来だったから、4か月ぶりの再会でした。
インターネットテレビ「株でバンザイ!」(当時はジャパネット株だ、というタイトルでした)で初代カブドルとして活躍、最近はヤフーファイナンスで連載をもっている人気株式タレントの深田萌絵さんでした。著書に
「女子大生トレ-ダー深田萌絵の小額取引で儲ける『日経225オプション』超入門」「女子大生トレーダー深田萌絵の株ビギナーでも儲かる『アノマリー投資』超入門」 があります。

今頃は、国際的に著名な投資家のジム・ロジャーズ氏と対談しているでしょうか。萌絵さんは雑誌「マネー・ジャパン」でジムの連載を担当しています。普段はメールでやりとりをしていますが、今回は有山典子編集長と一緒にジムにインタビューをすると言ってました。ジムからどんな内容の話を聞きだしているのか、楽しみですね。

萌絵さんとはじめて会ったのは去年の1月か2月か。
番組のKプロデューサーから「夕刊フジで番組のPRをしてもらえないか」と頼まれたのがきっかけでした。司会の若林史江さんもよく知っていたし、ふたつ返事で引き受けました。「その代わりに…と言っちゃなんだけど、わたしも先日、本を出したんですよ。これをどこかで宣伝してもらえませんか」とKプロにお願いしたところ、「番組に本のPRコーナーがあるから、いいですよ。いっそ今夜、生放送があるから出演してPRしませんか」と誘われたので、ありがたく出演させてもらいました。

拙著は「『ダメ!』と言われてメガヒット」(東邦出版)というタイトルで、ヒットマンガの舞台裏を綴ったもので、投資にはまるで関係がない内容だったにもかかわらず、Kプロも出演者のみなさんも暖かく迎えてくれました。さらに、萌絵さんはアマゾンで書評まで書いてくれました。

じつは、6月に会ったときは、ちょうど辞表を出した日でした。ネットでも有名な「未来かたる」さんを紹介してくれたのです。かたるさん、萌絵さんの前で起業して「マネー教育」のために全力を尽くしたいとの話を語りました。この日以来、4か月ぶりに再会した萌絵さんに「1億総億万長者プロジェクト株式会社」の名刺を差し出すと、「夢に一歩、近づいたのですね」と激励してくれました。たとえ、ほんの一言でも、温かい言葉がものすごく支えになります。
萌絵さん、ありがとうございます。

(2005/10/28)

初体験!

きのうの夕方、マネックス・ビーンズ証券の会議室に呼ばれました。近く出版される投資のムック本に個人投資家のひとりとして登場することになり、インタビューを受けたのです。これまではインタビューする側だったので、初体験のインタビューされることに戸惑ったり、緊張したり…。

インタビューアーは、フリープロデューサーの天海源一郎さん。1968年生まれ。ラジオNIKKEIを経て昨年独立し、「新興市場で30万円を5000万円にする株式投資」(成美堂出版)などの著書で知られています。いかにも大阪人らしい、口八丁手八丁、バイタリティーも人一倍というタイプ。おまけに人懐っこく、1か月ほど前、都内のセミナーではじめて会って名刺交換したとき、「ああ、宇都宮さん、お会いしたかったんですよ」と話しかけられました。

インタビューの前には、顔写真の撮影があったんですが、これが大変。カメラマンから「はい、笑顔で」といわれても、そんなすぐに愛想笑いなんかできないじゃないですか。結局、仏頂面のまま写ってしまいました。「新聞記者時代、オレも取材のとき、はい、笑顔でって注文してたけど、けっこう難しいもんだなあ」と実感しましたし、すぐに作り笑いができる芸能人ってすごい!と見直しました。

それはさておき、インタビューです。
わたしの前にも数人がインタビューされていて、それぞれ株や為替で儲けたカリスマたちのトレード法などを語っていたようでした。
ところが、わたしの場合、インタビューが始まると、「宇都宮さんは最初、株で大失敗したんですって」と聞かれたので、ITバブルにはまってのたうちまわり、その後、信用取引にも手を出し、地獄を垣間見た失敗談を打ち明けました。まあ、言ってみれば、マヌケな投資家の典型みたいなものですね。
天海さんやライターさんたちは「ひゃー、大変ですね」「奥さんには知らせてないんですか」などと言いながら、大笑い。
それで、こっちもつい調子に乗ってベラベラとしゃべっちゃて、さあ、ここから(しゃべりたかった)「恋愛投資術10の法則」を説明しようと思ったら、なんと時間切れですと。あれれ?

んー、きのうはしゃべり足りなかったなあ。

(2005/10/27)

軽井沢ブーム

先週の土曜日、軽井沢に出張してきました。現在は第4次軽井沢ブームなんだそうで、その仕掛け人のひとり、「星野リゾート」の担当者に取材してきました。


取材しようと思ったのは、先日、複数の知人から次の話を聞いたことがきっかけでした。
「グッドウイル・グループの折口雅博さんの軽井沢の別荘に招待されて行ってきたんだけど、ものすごくゴージャスだった。多分、軽井沢でも1番なんじゃないか」

その話に興味をそそられてちょっと調べてみると、IT系のベンチャー企業の社長たちが続々、軽井沢に別荘を買っていたことがわかりました。
どうしてなんだろう?
わたしの頭の中では、軽井沢といえば、昔の財界トップの避暑地というイメージがありました。
何年前だったか、ホンダの本田宗一郎さんがお亡くなりになった直後、ソニー名誉会長だった井深大さんに本田さんとの交友についてお話をうかがったことがありました。インタビューした場所は、軽井沢の井深さんの別荘でした。
「ネアカのガキ大将だったよ」
井深さんは本田さんのことを「おあにいさん」と慕い、体調が悪いにもかかわらず、数時間にわたって数々のエピソードを語ってくださいました。このインタビューは夕刊フジに4回連載され、その後、ソニーの社内報にも転載されました。

ま、そんな話はともかく、いまや軽井沢は「東京24区」とも「第二の六本木ヒルズ」と呼ばれる場所に変貌しているのです。旧・財界人だけではなく、若手起業家がひそかに集う場所になっているのです。
そこには、マネーにかかわる、あるおもしろい現象が隠されていました!
詳しくは、連載中の雑誌「HAWAYU(ハワユー)」(東急ゴールドカード株式会社発行)12月号で取材してきた内容を書きますので、そちらをごらんください。

同誌は、東急ゴールドカード会員向けの月刊誌でつい最近リニューアルしたばかりです。わたしは10月号から「宇都宮滋一の今こそ始める資産運用塾」を連載させていただいています。
同誌を編集しているエイ出版社のミ~チカさんが、ソーシャルコミュニティサイトのミクシー仲間で、彼女からオファーをいただきました。会社をつくったばかりでほとんど収入のない身としては、本当にありがたいと感謝しています。
ミ~チカさん、ありがとうございます。

(2005/10/24)

あと半年

「あと半年…」
母の主治医から、そう宣告された。

マネー教育を目的とした「1億総億万長者プロジェクト株式会社」を起業してから忙しく、先週末、3か月ぶりに入院中の母を見舞った。
ベッドの上に、なんとか起き上がれるようになっていたし、食欲もあって「蟹が食べたい、松前漬けが食べたい」と言っていて、前回のときより元気そうだった。
ただ、本人には自分の体のことなので、なんとなくわかっているのか、身の回りや資産の整理を急いでいた。また、生前に戒名をもらっておきたいとも希望したので、信仰しているお寺に頼んでつけてもらった。

肺の機能がどんどん低下し、自力で呼吸ができないので、いまでは酸素マスクをしている。主治医の説明だと、肝臓にも転移が始まっているという。
「肝臓に転移したら、だいたい半年ですね」
主治医が、そうたんたんと告げるのを、僕もたんたんと聞いた。

乳がんが再発してかれこれ5年近く。
医師も、僕らも、最善を尽くしてきた、と思っている。
「なんとか最後に、家に帰してあげたかったけど。酸素なしじゃダメだし、うーん、難しいねえ」と主治医も辛そうだった。

さて、これからどうしたらいいんだろう。
起業した会社をほうっておくわけにはいかないし、かといって母の面倒も見ないといけないし。

僕が起業に踏み切った理由のひとつが、母の姿だった。
「成功するか失敗するか逡巡している暇はない。元気なうちに、なんでもチャレンジしよう」
そう決意したのだ。

母も、僕の会社が順調にスタートしていると聞き、「それならよかった。男は一生懸命仕事をしなきゃダメだ」と言っている。起業直後の苦しみはいろいろあるが、ベッドで横になるだけの母の苦しみに比べれば、天国みたいなものだ。

でも、あと半年。
本当は会社も投げ捨て、母のそばにずっといてあげるべきなのだろうか。
そうしない僕は、親不孝者なのかもしれない。

(2005/12/1)

退職のごあいさつ

慌しくて、退職のごあいさつをしていない人がいっぱいいる。みなさん、ごめんなさい。

先日、一部の方に次のような「あいさつ文」をお送りした。きょう、知人の女性ライターから「あの文章、心震えました。本当にそうだなぁと賛同してしまいました」と、過分なるお返事をいただいた。

ご縁のあったみなさま方へ(BCC一括送信で失礼します)


突然のご連絡となることをお許しください。
私、宇都宮滋一は7月末日で産業経済新聞社(夕刊フジ)を退社することに決まりました。先月末に辞表を提出、受理していただきました。
独立してマネー教育のための会社を起業します。

といっても、夕刊フジとケンカ別れするわけではありません。
担当している連載は、夕刊フジの上司のご配慮もあり、今まで通り、私(フリーの編集プロダクションとして)が当分の間(短い場合は3か月程度~)、担当することになりました。

今年5月から「女性のための実践投資スクール」(年会費15万円、31人参加)と「女性のための中国株入門セミナー」(各回4000円前後、定員100人)を企画、実施しています。(このスクール、セミナーも最後まで担当させてもらえることになりました)。
ここで出会う受講生のみなさんの熱心さに心打たれました。

これまで、多くの人たちはマネー(投資、運用)のことを学ぶ場がありませんでした。
ところが、突如、ペイオフは始まるし、「貯金から投資」がキャッチフレーズのように叫ばれだしました。
でも、ほとんどの人が知識がありません。それなのに、「投資は自己責任」との突き放したような物言いに、おろおろするばかりの人たちがいます。

今こそ、きちんとしたマネー教育が必要です。
夕刊フジの一員として、上記のスクール、セミナーを担当していますが、僕の場合、本業は新聞記者であり、どうしてもこれらのスクールのことは片手間になりがちです。
あれだけ熱心にスクールに通ってくる受講生のために、また全国各地にもっともっと大勢、マネーのことを勉強したいと思っている人たちがいることを考えると、僕は、自分のできる最大限のことをしようと決断しました。
僕なりに、マネー教育のきちんとしたプログラムをつくり、セミナー、出版、動画、ポータルなど幅広く、活動しようと思っています。
とくにキッズ向けのマネー教育を大事にするつもりです。
そのためにも、世界のマネー教育(幼稚園、小学校から始まるらしい)の実態をリポートしたいと考えています。

振り返れば、僕自身が投資を始めるきっかけは連載陣のひとり、菅下清広さんとの
出会いでした。

かねてから菅下さんの「幸せの10か条」に感動し、「人生の師匠」と心酔してきました。その菅下さんが1999年秋、最初の本を出版しました。「株式ダービー」というタイトルでした。僕は、この本を最初に、菅下さんの本3冊のゴーストライターをしました。

本のために、菅下さんに株のことを教わる毎日でした。週3日くらい、菅下さんのオフィスに通いました。
ときは、ちょうどITバブルのころ。
「へえー、いまソフトバンクや光通信を買うと、大儲けできるのか、こりゃ、いいチャンスだ!」

欲の皮の突っ張った僕は、自宅のマンションを売却し、ローンを差し引いた残りと社内預金の計1300万円(ほぼ全財産)ほどをソフトバンク、光通信、トランスコスモス、日本オラクルなどにぶっこみました。最初は好調でした。師匠のすすめる銘柄を買っていくと、資産がみるみる増えていきます。
「なーんだ、投資って簡単じゃないか」

ところが、ご承知のように翌年の2000年2月、ITバブル崩壊。「まあ、どのくらい下がるもんかなあ」と当初のころ、のんきに見ていた僕でしたが、あまりの暴落にどんどん血の気を失っていきます。

そして、信用取引を知ることになります。「へえー、3倍まで取引できるのか。これなら、一気に損を取り返せるだろう」とシロートの浅はかな考えで手を出しては、さらに損を広げていきました。

今でも思い出します。投資を始めて3年後、2002年冬。気が付いたら、手元にお金が180万円しか残っていませんでした。つまり、3年で1120万円を損していたわけです。貧乏記者にとっては、もう二度と取り戻せない大金でした。妻にも家族にもナイショでした。

「もう死んでしまったほうがいいかも…」
そんなよからぬ考えも浮かんでは消えました。

この間、必死で勉強もしました。とにかく、本屋の棚にある投資の本を片っ端から読みました。300冊くらいにはなるでしょうか。新聞は、朝は日経、日経金融、夜は株式、日本証券新聞。雑誌もマネー雑誌は軒並み買って読みました。ネットでも連日、情報収集しました。

ある夜、トボトボと家路についていたとき、ふいに次のことに気づきました。

「なーんだ、おれってものすごくいっぱい、いいものをもっているじゃないか。家族がある、仕事がある、友人がいる。健康でもある。なくしたものはたったひとつ、金だけじゃないか」

そう考えると、急に元気が出てきました。
と同時に、不思議なんですが、投資でも成功が重なり、どんどん資産を回復していくことができました。結局、2003年の1年間で資産を10倍以上にすることができ、これまでの損を取り戻すことができました。

僕は投資からいろんなことを教わりました。投資はお金を儲けることだけが目的じゃない、投資は人生の修行の場でもあると思っています。
成功した個人投資家のみなさん(若い人も多い)は、自分なりの哲学をきちんと持っていて、人間的な魅力を感じさせられます。

また、恒産なくして恒心なし、ともいいます。お金をもっている人、ポケットに余裕のある人は、他人にも優しく接するようにもなる(と僕は感じます)。

僕は投資に出会えて、ものすごく幸せだったと本心から思っています。
この幸せを大勢の人に伝えたいとも念願していまして、その思いがスクール、セミナーにつながりました。

僕は、「日本中を億万長者にしよう。そうすると、日本という国はものすごく優しい国になる」と夢見ています。

社名は「1億総億万長者プロジェクト株式会社」。
冗談みたいですが、僕は大真面目です。

8月10日前後には設立にこぎつけたいと思っています。
(注 8月8日設立に決まりました)。
あさって、友人の税理士と相談します。

資本金は、僕が1000万円。
ほかに、菅下さん(や会社の同僚、先輩)たちが10万円づつ出資してくれるようです。

みなさま方には、これからもお力添えを、どうかよろしくお願いします。

  夕刊フジ 宇都宮滋一

(2005/7/28)

赤塚不二夫のことを書いたのだ!!

先週発売の新刊「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」(武居俊樹著、文藝春秋刊、本体1600円)。これは正真正銘、傑作だ。

表紙にはこうある。
『よく描いた!よく飲んだ! 伝説の赤塚番「武居記者」がぜ~んぶ書いたのだニャロメ!!』


27日夜、アルカディア市ヶ谷で出版記念パーティーが開かれ、僕も出席してきた。

参加者の顔ぶれは豪華だった。
赤塚さんの元アシスタントだった北見けんいち(釣りバカ日誌)、古谷三敏(ダメおやじ)、高井研一郎(総務部総務課 山口六平太)のほか、石井いさみ(750ライダー)、あだち充(タッチ)、武論尊(北斗の拳)、やまさき十三(釣りバカ日誌)などの各氏や、小学館の編集者(武居さんの後輩)たち。ざっと見渡したところ、総勢100人ほどいただろうか。会場に入りきれず、受付のまわりに酒、つまみを持ってきて談笑する人たちもいた。

冒頭、お祝いのあいさつに立ったやまさきさんは、武居さんと早大文学部(演劇専修)時代からの親友(悪友?)。

「青白い浅学の徒が(天才の)えじきに会うさまが描かれているはずだ。もとは、勤勉、実直、大まじめが正体だが、赤塚番になって4、5年後に会うと、大バカになりきっていた。天才にイビリ殺されないために大バカになりきることにしたと思う。バカを演ずるしかないアホがどの程度、天才に迫っているか」と、「バカ武居」の処女作にお祝いのメッセージをおくった。

続いて、赤塚夫人の真知子さんが「赤塚の祝辞を代読します」と前置きし、「僕の本を書いてくれてありがとう。パラッと見たけど、君も大人になったね。僕のこと、こんなに愛してくれたなんて、来世は結婚してください。でも、僕より先に文豪になったから嫌い。きょうは欠席して寝ていることにする」とスピーチした。

「天才バカボン」の担当者だった五十嵐隆夫さんも、この本の中で登場するが、「仮性包茎だった」とか「タクシーの中に原稿を置き忘れた」ことなどを暴露されている。

五十嵐さんは、パーティーの締めに登場し、「あのころのことをだれか書いてくれないかと思っていた。仮性包茎と書かれようがかまわない。出版界は何が起こるかわからない。次に、原稿をもらいにいくかもしれない。また、そうなってほしい」と、文豪・武居にエールをおくった。

調子に乗った武居さんは「オレの場合は初版30万部からだ」と豪語している。

(2005/5/30)

姉さん

きょう、久しぶりにイラストレーターの竹中恭子さんと大手町で会った。

竹中姉さんは、いつも着物姿で、お酒を飲まないときはおしとやかな(?)人。
以前は、「35の会」(昭和35年生まれが35歳の年に旗揚げした)で、しょっちょうお会いしていたが、2年ほど前に会を休止したので、めっきり会う機会が減ってしまった。

きょうは、六本木ヒルズで楽天ブックスのインタビューを受けていたという。そのあと、用事で大手町に来るついでがあったので、誘ってくれたという。

姉さんは先月、まりもちゃんの「アレルギーとんでけ!」ガイドを出版している。

この作品で6冊目だというから、売れっ子の作家兼イラストレーターといっていい。僕なんか1冊出しただけでヘトヘトになってしまったというのに、姉さんのパワーには脱帽するし、尊敬したい。

そんな竹中姉さんが、うれしいことを3つも言ってくれた。

まずは、一つ目。

「うっちゃん(と姉さんには呼ばれている)は、ハンサムだから…」
(ううう、最近、フラれてばかりだったけど、これで立ち直れそう)

次、2つ目。
なぜ、株式投資をするのかと聞かれて、えんえん説明したあと、姉さんは僕の顔をじっとのぞきこみながら、こう言った。

「お酒飲んでないときは、ホント、いいこと言うんだよね」

最後に3つ目。

姉さんはライターズネットワーク湘南という、出版、マスコミにかかわる人たちの親睦会を主宰している。この親睦会のことをいろいろと説明してくれたが、こんなこともポツリと。

「35の会がとっても楽しかったのが、今も忘れられない。だから、ライターズネットワーク湘南も始めてみようと思ったんだよ」


ありがとう、姉さん。

元気をたくさん、いただきました。

(2005/5/18)

蝶々

最近の「小悪魔」ブームの火付け役、蝶々さん(作家、エッセイスト)が僕のことをCHOCHO生しぼりで書いてくれている。

「U氏」というのが僕。なかなか的確に表現されており、さすが作家と脱帽した。「いやー、見抜かれちゃったか、恥ずかしい!」って感じでもある。

蝶々さんは処女作の「銀座小悪魔日記」で、あっという間にブレーク。いまや出す本、出す本がベストセラーになる売れっ子である。

そんな蝶々さんのはじめての新聞連載が夕刊フジで、担当が僕だったのだ。

(2005/4/21)

奇跡

奇跡とは、待っているものではなく、自ら生み出すものなのかもしれない。


今年1月、母の主治医から緊急連絡が入った。
「きわめて危険な状態です。できるだけ、早く来てください」

ちょうど、友人のお店で新年会の真っ最中だった。ついに来るべきときが来たのか、と呆然とした。このまま、すぐに母のもとに行きたかったが、新年会を中座できない事情があった。友人たちのもとに戻り、何事もなかったかのように、笑顔を浮かべるのが辛かった。

2日後、仕事の都合をつけて病院に向かった。

主治医の話だと、3分の1しかなくなった肺に肺炎を起している。レントゲンをみせてもらったら、正常な人だと黒く写るのに、モヤがかかったように白っぽくなっている。白っぽいところが、肺炎になっている部位だという。酸素吸入をしているが、肺に酸素が入っていきずらくなっていた。

「いつ、どうなってもおかしくない状況です。覚悟はしておいてください」
主治医に、そう告げられた。

その日とは、今日なのか、それとも明日なのか。

親戚たちと、いろいろな相談をした。
問題がひとつ、あった。

自宅に金庫があり、その中に重要書類などを保管してあるのだが、開け方をだれもしらない。
「シゲ! まだ話ができるうちに、ちゃんと聞いておけよ」。親戚たちから何度も念を押された。

母のベッドのわきで、僕は何度も「ねえ、おかあさん、カギの開け方なんだけど…」と口を開きかけたが、ついに聞けなかった。

感の鋭い人だから、なぜ、金庫の開け方を聞きたがるのか。察しがついてしまう。

母は「必ずよくなる」との一念で、ギリギリの瀬戸際で頑張っている。金庫の開け方を聞こうとするのは、「あなたは、もう治りませんから」と宣告するようなものだと感じていたのだ。

気丈な母の思いが天に通じたのか、日に日によくなっていった。1週間後、主治医がレントゲンをみて驚いていた。

「白いモヤが消えてます。これなら、もう大丈夫です。もしも、また何かあったらすぐ連絡しますから」

さらに、その日から2か月。
先週末、病院の母を訪ねた。
腰が抜けそうになった。

昨年7月から10か月間もずっと寝たきり、寝返りもほとんど打てなかった。つい2か月前は生死の境をさまよっていた。

そんな母がベッドに起き上がっている。歩いてトイレにも行けるようになった。そして来週には退院できるという。

どうなっちゃってるんだ。これは夢か?とビックリした。

本人は10か月ぶりに自宅に戻れることを喜んでいた。
自宅に戻ってからの生活も、心配は心配なのだが、とりあえずは、念願かなって自宅に帰れるようになったことを、みんなで喜びたい。

僕たちまわりは、何度も「もうダメだ…」と諦めていた。
だが、母だけは決して諦めなかった。
「治りたい」「家に帰りたい」と、いつだって必死に病魔と戦い続けた。

僕は、母に人生で大切なことを教わった気がしている。
それは…。

「絶対に諦めるな」「絶対に挫けるな」ということ。


おかあさん、あなたはすごいよ。
僕は、あなたの息子で、よかったと感謝してます。

(2005/4/19)

再・言わぬが花

昨年9月に書き、すぐに削除したブログをもう一度アップしたい。
当時、削除したとき、「言わぬが花」と言いました。母のことを書いた一文です。タイトルは「壊れたかった」。
あれから半年が過ぎました…。


母のことを書こうと思います。
暗い話になっちゃいますけど。

(昨年9月)11日から3日間、北海道小樽市に帰省し、1カ月半ぶりに入院中の母を見舞った。68歳、あと何年生きられるのかわからないが、確実にそのときに向かっている。そして、このまま生きていて何か楽しいことがあるんだろうかと絶望的な思いがよぎった。

母は3年半前、乳がんが再発し、両方の肺などに転移した。手術はできず、抗がん剤による治療などを受けてきた。薬の副作用で一時、髪の毛がすっかりなくなったりしたが、それでも今年初めごろまでは小康状態を維持していた。
昨年暮れから、左目が見えなくなってきた。どうやら転移したがんが視神経にも影響を与えているらしい。「きつい治療になるが…」と主治医に放射線治療をすすめられ、いちるの望みをつないだ。

だが、結果的にはこれがよくなかった。

肺に転移したがんへの大量の放射線照射によってその後、肺炎を起こしてしまう。「肺が燃えている」と医者も驚く状態になった。肺の3分の2が燃えつきた。残り3分の1では呼吸が苦しくなり、チューブをつないで鼻から吸入する酸素の量が一段と増えた。

肺炎を抑えるのに使ったステロイドがまた悲惨な状況を引き起こした。
「副作用で骨がもろくなる…」。主治医がそう言っていたが、まさかここまでとは。

母はうがいをしようと、わずかに後ろにそっただけで、左腰の骨が折れてしまった。1か月半の安静でやっとベッドから降りて車イスに乗れるようになったと喜んでいたら、背中をふこうと腰をねじったときに、今度は右腰と背中の骨が折れてしまった。

もともと骨粗しょう症気味だったんだろうが、度重なる治療と薬の副作用で骨がボロボロになっているのかもしれない。

コルセットをつけたままの母は、病院のベッドで寝返りすらうてず、ただじっとしていないといけない。「気が狂いそうだ」と何度も何度もつぶやいていた。


若い頃の母は、それはそれは美人だった。「映画女優」に間違われることも多かったという。

小学校の授業参観に母が来ると、僕は恥ずかしさでいっぱいになった。「ファッションショーじゃないんだから、少し地味な格好をしろよ」と僕が頼んでも、母はまったく聞いちゃいなかった。小樽という田舎町で、参観に来るほかの家のおかあさんたちは、モロ、いなかくさい格好の、おばちゃんたちばかり。

母は顔が派手なのでただでさえ目立つのに、ツバ広のしゃれた帽子をかぶってきたりして学校中が色めきたった。

今思えば、母は女盛りだった。だが悲しいかな、その姿をアピールする場が息子の授業参観くらいしかなかったのだろう。

母は美人なのに、性格は地味で堅実だった。小樽のような田舎町を飛び出し、自由奔放に生きたら、もっと違った人生を切り開けただろうに。また、出会った男が僕の父のようなだらしないヤツでなかったら、とも思う。

父は牛乳屋や風呂屋を経営し、お金には困らない生活をさせてくれたが、毎日、浴びるように酒を飲む、のんだくれで、女好きのどうしようもない人間だった。(僕は、この遺伝子を確実に受け継いでいる)。父が愛人の家に隠れているのを、母と2人で連れ戻しに行ったこともある。

僕が高校3年生のときに両親は離婚した。母は、以来ずっと一人暮らしを続けている。

48歳のときに、乳がんを発症した。手遅れ寸前だったため、乳房のほか左ワキのリンパ節まで切除する大手術になった。左手が不自由になった。

その後も病気がちで、髄膜炎、帯状疱疹などで何度も入院をした。でも、まさか16年もたってから、がんが再発するとは想像もしていなかった。

母は「絶対、病気に負けない」と強い意志を持っている。苦しい治療にも必死で耐えてきた。今も耐えている。

東京と小樽に離れているので、なかなか見舞いにも行けない。母は「男の子なんか産むんじゃなかった」「女の子なら、きっとそばに居てくれたのに」と、こぼすことが多い。

おかあさん、ごめんなさい。僕は親不孝ものですね。

母が一人暮らしをしていた家に2泊した。母はもう、この家には戻ってこれないだろう。

人間、生きていればいいことあると思っていた。だが、母はこの先、どんないいことがあるというのか。人間としての尊厳も奪われ、ただ絶望に向かって一歩、一歩、歩んでいくだけではないのか。

僕は、慟哭した。
「神様、お願いです。こんなに辛い思いに耐えているんです。生まれ変わったら、幸せにしてあげてください」

(昨年9月)13日早朝、仕事の都合で東京に戻らなくちゃならなかった。母は、泣いていた。でも、「仕事は大事だから、早く行きなさい」と僕を送り出してくれた。

僕は寝ている母を抱き、「こんなに辛い目にあって頑張っているんだから、おかあさんには、これからどんどんいいことが起きるよ」「きっと治るからね」と励ました。しょせん、気休めの言葉にすぎないけれど。

(2日後の)15日夜、ホテルニューオータニで友人の出張美容師、廣瀬浩志さんの出版記念パーティーが開かれた。「髪日和」という彼の本はとてもいい作品で、感動した僕は幹事のひとりになっていた(「男・江口の涙」をご参照ください)。廣瀬さんの人望に、160人もの人たちが集まる大パーティーになった。

僕は、この日だけは、明るく、陽気に、盛り上げたいと願っていた。

2次会の席から、4カ月断っていたお酒を今宵だけ、との条件で解禁した。

お酒を飲んだらやっと抑えこんでいる心を抑えきれなくなり、暴発しかねないと不安だったが、僕は「壊れてしまいたかった」のだ。
そして、壊れた。

あとで「ほほえましかった」「大爆笑しました」と言ってもらえたので、不快な思いをさせることなく壊れたのだと知り、ホッとした。

つくづく弱い人間だと思う。

廣瀬さん、刀根さん、2次会から駆けつけてくれたえみるん、そして最後まで一緒にいてくれた啓子さんたちの優しさに甘えながら、安心して壊れたのだ。
きっと、迷惑をかけていることでしょう。
ごめんなさい。

僕は、みなさまのような優しい仲間たちに救われています。

一方、母を救うのは、僕しかいない。が、どうしたらいいんだろう。
ああ、神様。


(2005/4/18)

桐野夏生

行方不明だった宮城の小5女児は先日、無事にお母さんのもとに帰ってきたそうで、ホッとした。
この行方不明騒動がブログなどで話題になっていたとき、僕はある小説のことを思い出していた。

その小説とは、6年前に出版された桐野夏生さんの「柔らかな頬」。
「OUT」でブレイクした桐野さんは、この作品では幼児失踪の話を描いていた。

主人公は34歳の森脇カスミ。実直な夫との間に2人の娘がいるが、2年前からデザイナーの男と不倫を続け、ある日、愛人に抱かれながら「子供を捨ててもいい」と思う。その直後、長女・有香が行方不明になってしまう。半狂乱になって探し歩くが、見つからない。そして4年が過ぎた…。

偶然だが、この小説を読む数日前、わが家の6歳と4歳の子供が目を離したすきに行方不明になる事件があった。妻が美容室にでかけ、僕と子供たちが留守番をしていた。子供たちは、家の玄関前で一緒に遊んでいた。その声を聞きながら、僕はついウトウトとしてしまった。
どれくらいたった後だろうか、ハッと気付いたとき、玄関から声がしない。
「おやっ?」。

あたりを見渡したが、いない。外は小雨が降っていた。階下に降りていき、マンションの管理人に「うちの子みませんでした?」と聞くと、「ああ、さっき出ていきましたよ」と言うではないか。

あわてて外に探しに行った。6歳と4歳のふたりだ。それほど遠くへは行けまい。だが、近所を探し回ったが、どこにもいない。

僕は半狂乱になりそうだった。
「事故?」「まさか誘拐?」

「ああ、なんてことだ。目を離したばっかりに…」。

僕は、マンションの前で呆然と立ち尽くしていた。

だが、まもなく角の小道から、傘を差しながら歩いてくる2人が見えてきたのだ。

人生でこのときほど、ホッとしたことはない。

2人とも元気だった。後で聞いたら、歩いて10分くらいかかる幼稚園まで行っていたという。途中、信号のない通り(けっこう交通量があってアブナイ)をわたらなくちゃいけないのだが、そこもわたったという。

桐野さんの小説を読んだのは、こんな出来事があった数日後だった。インタビュー取材をする予定になっていたからだ。

だが、読むのは辛すぎた。
有香ちゃんが犯人に惨殺されるシーンが2度もあった(あとで夢とわかるが)からだ。

桐野さんとは吉祥寺のホテルでお会いしたが、彼女も面食らったと思う。
なにしろ会うなり、僕は「こういう作品は嫌い」「いくら小説でもむごい」「桐野さんって怖い人ですね」とケンカ腰だったのだから。(なら、会わなきゃいいのに…)。

桐野さんが怒りだしたら、僕は取材を打ち切って帰ろうと覚悟していた。だが、桐野さんは冷静に僕と向き合って語り始めた。

「以前、テレビで行方不明児の特集を見てお気の毒だなあと思った。親は生きていてほしいと願っているが、まわりの人たちの想像では『もしかしたら亡くなっている』。こういう目にあったら、その後、家族はどういう風に生きていくのだろう。そんな好奇心から始まったんです」

(夢の中とはいえ、むごいシーンがあった。僕には辛すぎた)

「つまり、小説家はこういうことを書いちゃいけないと」

(いや、そうは言いませんが)

「私も娘を見失ってハラハラドキドキ探し回ったことが何度もあった。子供が死ぬシーンを考えるのが辛くて、1回筆を置いた。ですから4年がかり」

(そうだったんですか…)

「モノ書きって恐ろしいのかもしれない、確かに。筆がそっちに行くんです。いかん、いかんと思いながら。でも、これはずいぶん躊躇したし、推敲したし、何百枚も何千枚も捨てたし…」

桐野さんはエキゾチックな美貌にスラリとしたプロポーション。この日、着ていた黒ずくめのシックなファッションがよく似合った。
話してみると、気さくでサバサバした人柄だった。

「フツーの妻でフツーの母ですから。いいヤツですから、アハハハ。きょうだって、朝6時に起きて子供の弁当つくったし」

うん、たしかに、いいヤツかもしれないと思った。でも、フツーではないだろう。フツーの中に、「凄み」を隠し持っている人。

以前、小説を書く原動力を「居心地の悪さ」と語っていた。
「妻、母、作家の3つの顔ともどれもが自分じゃないような、本当の自分がどっかにいるんじゃないか、みたいな気持ちがうごめいている」という。

「柔らかな頬」の主人公・カスミも、オリの中で飼い慣らせない「野生生物」の魅力を発散し、「心を満たすもの」を求めて漂流する。

どこか、桐野さん自身とだぶるような気がした。


(2005/4/10)

父と娘

あれは5年くらい前のことだったろうか。
夜、編集局で原稿を書いていると、後輩が「女の人からわけのわからない電話が入っているんですけど…」と困っている。
「じゃ、代われ」
電話を回してもらうと、受話器から、ものすごく取り乱したような口調で、「父はどこにいるんですか! 居場所を教えてください!」とまくしたてる女性の声が聞こえてきた。

どうせ、「マル精」かなんかだろうと思っていた。
マル精とは、精神異常者など頭がイカれている人を指す隠語で、ほかに「電波」などと言う場合もある。

マル精からの電話は時々ある。とにかく低姿勢で話をよく聞いてあげること。そうすると、たいていの場合は気持ちが鎮まるのか、トラブルに発展することもない。

ちなみにマル精じゃなく、中年のおっさんが酔いにまかせて言いがかりに近い抗議や苦情を言ってくる場合もあるが、そのときは「文句があるなら新聞を買うなくていい」と言い、ガチャッと電話を切っている。

この夜も、とにかく聞くだけ聞いてあげようと、(長電話になることを)覚悟した。
彼女は「父なんです。どこにいるか知っているんでしょう。教えて!」と繰り返す。こちらは、どんな事情なのかさっぱりわからないので、「まず、順を追って教えてください」と頼んだ。

少し冷静になって話し出した彼女の説明によると、彼女の手元に1、2年前の新聞のコピーがある。「健康面」の記事で、ある芸能事務所の社長が重病を患ったが、奇跡的に復帰した、という内容だった。その社長(写真つきで掲載)こそ、彼女の父親だというのだ。

彼女は「父とは20年前に別れたきり、1度も会っていないんです」と打ち明けた。

「何か事情でも?」
僕がそう尋ねると、彼女は一瞬、言いよどんだが、やがて何もかも正直に話そうと決めたようだった。

「高校1年の夏、家出したんです。父とはそれっきりで…」

両親が離婚し、彼女は父と2人暮らしだった。
寂しさからだろうが、彼女はグレて新宿歌舞伎町などで夜遊びを繰り返した。怒った父が彼女を殴ることもしばしばだった。
彼女は父から逃げる決心をした。

それから20年の月日が流れた…。
彼女は幸せな結婚をし、子供にも恵まれた。子を思う父の気持ちもわかるようになっていた。
つい先日、自宅に差出人不明の宅配便が届いた。ダンボール箱をあけると、高校生のころの自分の持ちものと、新聞のコピーが入っていた。

コピーを見た瞬間、「父だ!」とわかったという。

ただ、彼女の父の本名と、記事に登場している人の名前が違う。

僕は、当時記事を書いたライターを探し出し、連絡を取った。
「これ、仮名だった?」
「いや、本名だと思いますよ」
「人違いなのかなあ。一応、本人に連絡を取ってください」

しばらくして、ライターから折り返し電話が来た。
「仕事では違う名前を使っていたそうで、本名に間違いないそうです」
「そうか、じゃ、やっぱり娘さんで間違いないな」
「そうなんですが、本人は(娘には)絶対会いたくないと言ってます」
「そんなことがあるもんか! いろいろ手間をとらせて申し訳ない。あとは俺が話を聞くことにするよ」

電話で事情を聞いた。
娘が家出したとわかってから、毎夜、歌舞伎町で娘の姿を探した。娘だけが生きがいだった。
「殴ったりして、父さんが悪かった…」
1週間が過ぎ、1か月が過ぎ、1年が過ぎた。でも、ついに娘の姿は見つからなかった。

娘は死んだものと諦めようと思った。ガムシャラに働いた。何人かスターを生み出すこともできた。
でも、やはり娘のことは忘れることはできなかった。どうした偶然だったのか、知人のツテで娘の居場所がついにわかった。

気づかれないように、そっと会いに行った。
娘は結婚し、子供もいた。幸せそうな笑顔を浮かべていた。

父は「お前も幸せになったんだなあ。よかった。これで思い残すことはない。さようなら」と、つぶやいた。

最近、また病気にかかり、入院・治療しなくてはいけない。こんどは生還できるかどうか…。宅配便で届けた新聞のコピーは、二度と会うことはない娘に宛てた形見のつもりだった。

僕は「娘さんは会いたがっている。どうして会わないんですか!」と聞いた。

すると、
「いまさら、父ですと名乗り出ても…。あいつには夫も、子供もいるし…。昔に戻れるわけじゃないんだから。会わないほうがいいんです。なんといわれようと、絶対会いません!娘には、連絡先は絶対に教えないでください!!」と、頑なだった。

僕は、娘に連絡し、「あなたが言うとおり、お父さんでした。でも、絶対、会いたくないと言っています」と告げた。

娘は、受話器の向こうで、むせび泣いていた。

「わたしにも子供ができて、親の気持ちがわかるようになった。一言、お父さんにごめんなさいと言いたいんです。せめて電話で、話をさせてください」

「…わかりました。僕のほうでお父さんを説得してみましょう」

もう一度、彼に電話をした。
「娘さん、泣いてましたよ」。
そう告げると、心が揺れているようだった。

「僕も3人、子供がいます。だから、あなたの気持ちは痛いほど、よくわかります。でも、このまま会わないでいたら、きっと後悔しますよ。僕なら会います」

「君なら会う?ホントに会う?」

「はい、僕なら会います。だって、月日が20年たとうが、父であり娘であることに変わりはない。父娘の絆は切れないんですよ! せめて電話で声だけでも、声だけでも、聞いてあげてください!!」

その後、どれだけ沈黙が続いただろうか。
彼は「電話だけなら…」と言った。

僕は、すぐに娘に「お父さんが電話を待っている。今すぐ、かけてください」と連絡した。


それから1、2週間ほどたったころ、彼から電話が来た。
娘たち一家と会ったという。「孫がおじいちゃんと言ってくれましてね」と、とってもうれしそうだった。

20年ぶりに対面した父娘は、「お父さん、ごめんなさい」「いや、俺が悪かった」。ふたりとも涙でぐしゃぐしゃになりながら抱き合ったという。


(2005/3/19)

村上ファンド

先週末、今話題の「M&Aコンサルティング」(通称、村上ファンド)代表、村上世彰氏のスピーチを初めて聞いた。直感的に、「相当、エキセントリックな男かもしれない」という印象を受けた。

12日午後、都内のホテルでマネックス証券主催の「個人投資家のためのオルタナティブ投資のすべて」というセミナーが開かれた。

「オルタナティブ投資」は、通常の株式投資や投資信託と違い、ヘッジファンドや未公開株ファンド、ベンチャーキャピタルファンド、企業再生ファンドなどを投資対象とするものだ。これまで欧米の富裕層(最低10億円程度、個人資産を持っている人)を相手にしてきたため、一般的な個人投資家にとっては秘密のベールに包まれてきた。

セミナーには、日本を代表するオルタナティブ投資のプロ5人が各20分前後の短い時間ながら、投資最前線の内容を話してくれた。

プロ5人のひとりが、村上氏だった。

壇上の姿は「中肉中背か、あまり大きくはない」と思った。どことなくボンボン風の優しい顔立ち、口調も最初は穏やかだった。

だが…。

通産省時代、株価が割安に放置されている企業の経営者に出会った。
「なんで上がらないかわからない」と不審がる経営者に、村上氏が「あなたはどのくらい自社株を保有しているか」尋ねたところ、こんな答えが返ってきたという。

「そんな危ないもの、買えません」

村上氏は急にキレたように語気を強めた。
「クズみたいな経営者がいっぱいいた」
「クズ…」の部分は、吐き捨てるような激しい口調だった。

僕は、ハッとした。
東大卒、通産省OBのエリート、そして金融の最先端、M&Aの申し子。彼に対し、勝手にスマートな人物像を描いていたが、「違うぞ」。彼のスピーチの一言一言を聞き漏らすまい、と神経を集中させた。

村上氏は、敵対的M&Aは悪か?というテーマには、「基本はひとつ。適正な株価をつけろ。適正な株価をつけずにガタガタ言うな」と一刀両断。
匿名の「某放送」に対しては「なんのために上場したのか。ある人の株(比率)を薄めるため。ノホホンと上場して、今頃社長がオタオタとしゃべる。クズです」と、またも「クズ」呼ばわりして罵った。

次に、フジ、ニッポン放送の実名を出して今回の騒動の一部を振り返った。

今年1月、フジがニッポン放送株をTOB(株式公開買い付け)すると発表したときは、「ありがとう。感謝の気持ちでした」という。
当時、村上ファンドは18%強保有するニッポン放送の筆頭株主だった。過去数年間買い続け、「最後は300億円投資していた」。この間、フジ、ニッポン放送との間では「ののしり合いのけんかもした」という。

ライブドアが2月、電撃的にニッポン放送株の35%を奪取、筆頭株主に劣り出ると、フジ側はTOBの比率を25%に落とした。これに対し、村上氏は「激怒した。ニッポン放送が持っているフジの議決権がなくなる。なぜ、そんことを(同放送の経営陣が)認めるのか」。多くの安定株主が、マーケットの価格より安い5950円のTOB価格で持ち株をフジ側に売却したが、これにも「フジサンケイとお取引が…という。それ、総会屋じゃないのか。ほかの国なら、応じる人はいない」とも非難した。

そして、スピーチの締めくくりは、次のような宣戦布告。

「最近、マスコミの取材には応じていない。が、もう一度、6月にチャンスがあります。6月…そう、ニッポン放送の株主総会で。みなさんも6万3000円(ニッポン放送株は10株単位)で私の演説が聞ける」。村上氏は、不敵な笑みを浮かべ、壇上を去った。おそらくホリエモンとは、一心同体なんだろう。

エキセントリック、まむしのような執念深さ、(スマートとは正反対の)泥臭さとド根性…。

間近で聞いた村上氏の短いスピーチからは、こんな人物像を直感した。

こんな手ごわい人物を相手にしていたのに、ニッポン放送は何年も手をこまねいていたわけだ。これまでに、時間はあった。だが、手ごわい相手を向こうに回しているという危機感がまるでなかった。まさしく経営陣の失態だろうね。

今回のライブドアの買収劇の直後、フジサンケイグループのある首脳も「大丈夫。あんなの、なんてことない」とタカをくくっていた。

油断…。


いずれ、村上氏のことは取材してみたい。
そして、機会があったら、こんな手ごわい相手に勝負を挑んでみたいものだなあ。


(2005/3/14)

三浦恵美里さんと再会

世界的な冒険スキーヤー、三浦雄一郎さんの長女、恵美里さんと今夜、久しぶりに再会した。トレーニング施設などをそろえた新しい事務所(MIURAベースキャンプ)を都内の千駄ヶ谷にオープンし、きょうがマスコミ向けのお披露目パーティーだったのだ。

先日、以下のようなご案内をいただいていた。


〈梅花の候、立春とは名ばかりの寒さですが、如何お過ごしでしょうか?
昨年末に引越しました新事務所、その名も「MIURA BASE CAMP」ですが、ようやく低酸素・高酸素ルームの設置が完了し、試運転が始まりました。この低酸素室はエベレスト・ベースキャンプの標高5800メートルまで酸素濃度をコントロールでき、トップアスリートから中高年まで様々な形の効果あるトレーニングが可能です。また高酸素室では酸素濃度を38パーセントまであげ、ハイパワー・トレーニングやリラックスゼーション・プログラムなどを行っていく予定です。
つきましては、2月18日(金曜日)をプレス&関係者オープン・ディといたしまし、施設をはじめ今後の活動予定のご説明、実際に低酸素・高酸素室を体験いただけるようセッションを開催いたします。また各セッション後にお飲み物と軽食をご準備いたしますので、三浦雄一郎をはじめ私どもスタッフとともに気軽にお楽しみいただければ幸いです。是非お待ちしております
2005年2月吉日
三浦雄一郎 & ミウラ・ドルフィンズ スタッフ一同〉

先輩記者と一緒にベースキャンプを訪ねると、恵美里さんが人懐っこい笑顔で迎えてくれた。

「シゲさんが、一番最初に記事を書いてくれたんですよ」。恵美里さんは、僕のことをまわりのスタッフや先輩記者に、そう紹介してくれた。

冨士山直滑降、エベレスト大滑降(ギネスブック掲載)など、世の中をアッといわせてきた、僕らのヒーロー、雄一郎さんは2年前の2003年5月、世界最年長(70歳)でエベレスト登頂にも成功した。これもギネスに載った。
僕は、この雄一郎さんのチャレンジ(70歳でエベレスト登頂に挑む計画)を、たしか1、2年前に大きく報じたのだ。

このことを、恵美里さんはいまだに感謝しているような口ぶりだった。「恵美里さんて、ホント、いい人なんだよなあ。僕のほうがあのとき、スクープを書かせてもらえて感謝しなくちゃいけないのに」。

恵美里さんの案内で、ベースキャンプ1階にある「低酸素トレーニングルーム」に行くと、雄一郎さんの姿が見えた。すると、恵美里さんが「おとうさん、シゲさんです。ほら…」と紹介してくれた。

雄一郎さんとお会いしたのは、10年ぶりぐらいだったろうか。
雄一郎さんが、平成維新の会から参院選に出馬したとき、僕は1日密着ルポをした。青森など東北数県を遊説する姿を追いかけた。

あの日の早朝、羽田空港で、でっかい荷物を背負いながら行ったり来たりしている恵美里さんがいた。彼女は、父親の秘書兼、自身も比例区から出馬している候補者でもあった。

汗だくになりながら走り回る彼女の姿が、いまも目に焼きついている。
なんて懸命な人なんだろう、と思った。

最初の遊説地、青森市で選挙カーに一緒に乗った。
マイクからの第一声は、「北海道のみなさん、こんにちわ!」
(えっ、ここ青森だよ)
思わず、同乗したスタッフもみんなズッコケテしまったが、和気あいあい、楽しい取材だった。

繁華街では車を降り、候補者2人(雄一郎さんと恵美里さん)が詰めかけた聴衆と握手し、スピーチ。

そのときの恵美恵さんのたすき姿も、いまだによく覚えている。

この日の遊説は、とにかく時間に追われ、慌しかった。最後、盛岡だったか、仙台だったか、帰りの新幹線の時間にギリギリ、全員ダッシュでやっと飛び乗ることができた。

恵美里さんとは同い年だったが、僕と違って、彼女は12歳から米国に留学し、すごく国際的センスの豊な人だった。「四字熟語が苦手」なんて冗談めいて言うけど。
帰りに新幹線の中で、ずっと恵美里さんと話しながら帰ってきた。僕は彼女のことを、「すごくしっかりした人。自分のやりたいことを、キチンと持っていて、それに向かって歩もうとしている」と感じた。

選挙後は、ヨットレースの最高峰「アメリカズカップ」のニッポンチャレンジ・チームの広報担当の仕事で海外にいることが多かったが、国内に戻ってきたときに、「35の会」(昭和35年生まれが35歳になる年に旗揚げした)に誘って、一緒にカラオケに行ったこともあった。

その後、ふと、「そうだ、最近会ってなかったから、どうしてるかな?」と恵美里さんに会いにいき、雑談しているうちに、「そうそう、父が70歳でエベレスト登頂を計画しているんですよ」と聞かされたのだ。

「えー、それはすごいよ。記事、書いていいの?」
「いいですよ。父も喜ぶと思うから」

たしか、こんなやりとりがあったような気がする。


(2005/2/18)

「デリンジャー」を聴きながら

80年代を代表する実力派シンガー、刀根麻理子さんの「ゴールデン・ベスト」を今、聴いている。
収録されているのは、大ヒットしたデビュー曲「デリンジャー」(アニメ「キャッツアイ」テーマ曲)から演歌歌手「野原花子」の別名で歌っている「恋はサーカスゲーム」まで全19曲。

元ファン(いや、そうじゃなかった…今もファン)として、ひとつ、お願いしておこう。


音楽評論家、小川真一さんは「解説」で、次のように書いてある。
「刀根麻理子の名前を意識し始めたのは、ビートたけしの番組を見てからだと思う。土曜日の午後10時半から30分のバラエティーで、中身は相変わらずのナンセンスなコントだったのだけれども、毎回、番組の終わり頃にジャズのスタンダードを流すコーナーがあり、ここで歌っていたのが刀根麻理子だったのだ」
「この番組『OH!たけし』(1985年から日本テレビ系列で放映)で、彼女の虜になった方も多いのではないだろうか」

そうそう、そうだったよなあ、と懐かしい。たけしの番組はいまいちつまんなかったけど、僕も、刀根さん見たさに最後まで番組を見ていたような記憶がある。

新聞記者になって数年後、同期入社の芸能記者が刀根さんを何度もインタビューしていた。取材の後も、ヤツは刀根さんと時々会っていて、「先週、一緒に焼き鳥屋に行った」などと報告するので、「おい、オレもファンだったって言ってるじゃないか。今度はオレも誘ってくれよ」と頼んだが、「あ、ゴメン、ゴメン。この前、また飲みに行ったけど、誘うの忘れてたよ」だって。(…ったく!)

やっと紹介してもらえたのは、今から数年前のことだった。
当時、刀根さんは「ハンディーズ」という障害者たちでつくったバンドの曲をプロデュースしていた。

ヤツを通じて刀根さんからこう頼まれた。
「新聞で取り上げてくれないかしら?」
「はい、そんなこと、おやすい御用です。刀根さんの頼みなら、なんでも」

と、僕はえらく調子のいい返事をしたのだった。

幸いなことに、当時の芸能デスクも僕と同い年で、刀根さんにインタビューしたこともあった。彼に相談すると、掲載OKという。しかも、CDを聴くと、「この緑の地球(ほし)を…」というタイトルの、とてもいい曲だったので、かなり大きな記事にすることができた。

刀根さんとフィアンセ(当時)で出張美容師の廣瀬浩志さんの2人が文京区内にダイニング&ギャラリー「今人」をオープンしたのは、3年前のこと(ちなみに2人は昨年9月、ご結婚されました)。以来、ちょくちょく、友人たちと一緒にお店にいくようになり、親しく付き合わせてもらっている。
廣瀬さんは昨年9月、出張美容師としての体験を綴った感動のエッセー「髪日和」(このブログの「男・江口の涙」にも書いてます)を出版し、作家デビューした。
廣瀬さんは文才があるうえ、ハートの強く優しい人で、僕たち仲間も最初は「刀根さんファン」として店に来ていたのに、いつの間にか「廣瀬さんファン」になっていて、「刀根さん? ああ、廣瀬さんのマネージャーさん?」などと冗談を言う始末だ。

刀根さんも、彼を「直木賞作家にしたい」とベタ惚れで、内助の功に徹しているようだ。

あこがれの元歌姫(?)と、お店ですごく身近に会うことができる(注文したお酒や料理を運んでくれたり、一緒に話に加わってくれたりする)のは、とってもうれしいけれど、やっぱり違うんじゃないかと思う。

一昨年だったか、(ほとんど歌手活動休業中の)刀根さんが久しぶりに、1夜だけのライブを開いた。そのとき歌声を聴きながら感じたことを、きょうまた、CDを聴きながら思い出した。

「刀根さん、あなたはお店で会う人じゃなく、ステージで会う人なんじゃないでしょうか」


刀根さんは僕たちの前でいつも笑顔を絶やさないが、その実、ものすごく頑固な人(だと思うけど、違う?)。
「表舞台に出るより、後ろで支えているほうが性に合っているのよねえ」

そう言っていたこともあるが、でも、でも、才能のある人は「才能を無駄にしちゃいけない」と思う。これだけ「歌」の才能をもらって生まれてきたんだから。

水泳の北島康介の本(長田渚左さんの「北島康介プロジェクト」)を読んで「天才」はなんと辛いものか、と感じた。才能がなければ、才能を磨く努力などしなくてすむ。ところが、才能があると、血がにじむような努力をしてその才能を磨かねばならないのだ。才能を磨け!と周りからも期待される。辛いだろうけど、それが才能を持って生まれた人間の宿命なのだろう。
人間、宿命からは逃げられない。

「歌」は僕たちの心にいろんなことを語りかけてくれる。あるときはともに泣いてくれ、あるときは癒してくれ、そしてあるときは、希望の光を与えてくれる。

だから…。


僕は「ステージ」で熱唱する刀根麻理子を見たい。

(2005/1/9)

キャッシュカードがあぶない

きょう8日の日経新聞(4面)に「偽造カード 銀行に対策要請」という記事が出ていた。偽造キャッシュカードで預金が引き出される被害が急増していることを受け、金融庁が金融機関に対し、2月末までに対策をまとめるよう求める、という内容だ。こうした記事が出たのはジャーナリスト、柳田邦男さんのペンの力にほかならないが、記事を読むと、銀行界は「実際に被害が出た場合の銀行による補償には慎重だ」とある。

どこまで腐っているんだろうね、日本の銀行ってやつは。
みなさんもぜひ、柳田さんが昨年暮れ、緊急出版した「キャッシュカードがあぶない」(文藝春秋)を読んでください。僕の、そしてみなさんのお金が大変な危機に瀕しているんです。

柳田さんの知人が昨年、偽造キャッシュカードとみられるATMからの現金引き出しで、銀行預金2行(東京三菱、三井住友)分、計3226万9630円を盗まれたことが緊急出版のきっかけだった。

被害にあった知人が生活費を引き出そうとしたところ、「残高がありません」との表示がでたので、「そんなはずがあるもんか」と支店に問い合わせ、預金を全額引き出されていることが判明したのだ。
だが、キャッシュカードも通帳も盗まれていない。それなのになぜ、現金を下ろすことができるんだ?

警察では「スキミング」とみている。スキミングとは特殊な機械でキャッシュカードなどの磁気情報を読み取る手口のことだ。
犯行グループは、持ち主の財布などからカードを抜き取り、スキミング装置でデータを読み取り(1秒もかからない)、カードを元に戻しておく。被害者は、カードをスキミングされたことに、まったく気づかないという。

ただ、キャッシュカードの情報をスキミングしただけではATMを使えない。「暗証番号」が必要だからだ。犯行グループはどのようにして、「暗証番号」を入手するのか。

原始的な方法では、ATM利用者の後ろから画面を覗く、あるいは手の動きから番号を類推する、などがある。
もっと高度になると、ATMの真上に密かに超小型カメラをセットしてモニターするという手口がある。

ゴルフ場のセイフティーボックスを狙う犯行も頻発した。セイフティーボックスの真上に、やはり超小型カメラをセットしておく。被害者がプレーしているすきに、盗撮した映像で知った暗証番号を使ってボックスをあけ、キャッシュカードをスキミングしたあと、元に戻す。セイフティーボックスの暗証番号とキャッシュカードの暗証番号が同じ場合が大半だという。あるいは、運転免許証などから生年月日を割り出し、暗証番号を類推するケースもあるようだ。(誕生日を暗証番号にしているケースも少なくないからだ)。


最近では、さらにハイテク化している。
銀行のコンピューターに通じるATMの電話線に一種の盗聴器をつけてカードの磁気情報と暗証番号を傍受する、という電子技術の最先端を行く手法が普及している、というのだ。

こうした犯罪に対し、では銀行側の対応はどうか。
これが、お寒い限りというか…。

柳田さんが被害者を取材してまわったところ、銀行側の言い分は次のようだったという。
「カードの管理は自己責任ですから、銀行には責任はありません」
「うちは、ATMに(正しい磁気情報が入った)カードと暗証番号を入れた人に、きちんと支払いましたよ、どこがいけないんですか?」

最近、各銀行は暗証番号について「誕生日など類推されやすいものはやめてください」と盛んにキャンペーンを実施している。
だが、待ってほしい。
わずか4ケタの暗証番号だけでセキュリティーが保たれると、みなさん、本気で思いますか?

被害者の中には誕生日を暗証番号に使っている人もいたが、乱数表を使って他人に類推されないように警戒していた人もいた。だが、そんな警戒をしていても、ハイテク化した犯行グループにはやすやすと暗証番号を盗まれていたのだ。

柳田さんは海外の金融機関の事情についても、取材をしている。
この結果にも愕然とする。

犯罪先進国といわれる南アフリカでも偽造カード犯罪は頻発しているが、銀行は大口の預金者には盗難保険をかけているので、万一、盗難にあった場合も全額、補償してもらえるという。

すでに世界各国で消費者保護のための法律が制定されている。
米国では「50ドル・ルール」がある。これは、銀行に口座を持つ人が、偽造カードなどで預金を盗まれた場合、被害者が負うべき責任限度額を最高で50ドル(5500円)とする制度だ。つまり、盗まれた預金は50ドルを差し引くだけで、ほぼ全額戻ってくるという。
英国にはほぼ同じ「50ポンド・ルール」、フランスには「150ユーロ・ルール」がある。
さらに、日本の場合、ATMを使って一度に何百万円も引き出すことができるが、セキュリティーと消費者保護を重視する世界各国は、引き出し限度額を数万円程度に抑えているというのだ。

被害者の中には、深夜から未明にかけ、コンビニATMから計127回、総額2600万円も引き出されているケースがあったという。深夜に、これだけの資金を一体、普通の人が必要とするだろうか。にもかかわらず、現状の銀行のセキュリティでは「警報表示」も出なければ、当人への照会もない。

繰り返すが、こうした犯罪が頻発していることを知りながら、銀行は「責任はありません」「正しい磁気情報と暗証番号を入れた人にお金を出しただけで、なにがいけないのですか」と被害者の前で開き直っているのだ。
みなさんは、これをどう思いますか。

つまり、銀行が言っているのは、こんなことだ。
お金を預けてください。ただし、預かったお金がどうなるかは知りません。もし、盗まれても銀行の責任じゃありません。

銀行には、預金者のお金を預かっている「自覚」も「責任」も皆無だ。

僕らの大切なお金をガードしているのは、わずか4ケタの暗証番号だけ。
唯一、これだけなんですよ。

いつだったか、日本の国債格付けがアフリカの「ボツナワ」以下に引き下げられ、レーティングした格付け会社に向かって「世界第二の経済大国の実力を過小評価するな」と非難の声が集中したが、日本の銀行の対応をみると、「やっぱ、ボツナワ以下で当然だったんじゃん」と思ってしまう。

全国銀行協会によると、偽造カードによるとみられる被害は、2002年度は1200万円(4件)だったが、03年度は2億7200万円(91件)、04年度は上半期だけで4億6100万円(122件)に急増しているという。

だが、この数字も氷山の一角だ。銀行、警察の冷淡な仕打ちで泣き寝入りしている被害者が大半だと想像されるからだ。

こんなに被害が広がっていることを知っていながら、預金者保護にほおかむりしていた金融庁もなんなんだろう。UFJを刑事告発して正義の使者みたいな顔してたけど、とんだ偽善者じゃないか。こっちも問題のほうが、金融行政の根幹だと、僕は思う。
これでは預金者からの「信用」をまったくなくすだろう。にもかかわらず、銀行は危機感がない。
きっと、銀行ってヤツは腐っているんだな。


(2005/1/8)

池坊美佳さん

華道家元、池坊家の2女、池坊美佳さんが京都を舞台とした映画で女優デビューした。

デビュー作は「TURN OVER 天使は自転車に乗って」(http://turnover.main.jp/introduction_link.html)。05年1月22日から京都シネマで上映されるようだ。

公式サイトによると、「ジャンルは切なく風変わりな恋愛映画です。時間を超え、次元を超え、世代を超えた ほんもののメロドラマが復活します」。主演の藤村志保(ふじむら・しほ)、栗塚旭(くりづか・あさひ)のほか、仮面ライダーアギト」で人気を集めた賀集利樹(かしゅう・としき)も出演する。美佳さんも、このサイトの「映画を彩る役者達」のコーナーに、写真入りで大きく紹介されている。
僕が美佳さんに「女優デビューですね。映画、楽しみです」とメールをしたら、本人からは「そんな大げさなものではなく、一瞬ですよ、一瞬」「でも予期せぬ機会で楽しかったですよ」と返事がきた。

美佳さんにはじめて会ったのは、1996年(平成8年)11月だった。1か月前の総選挙で母親の池坊保子さんが新進党(近畿比例ブロック)から出馬、当選した。
僕は、池坊議員に取材を申し込み、衆院議員会館の部屋に向かった。笑顔で待ち受けていた議員は、色鮮やかな青のツーピースに真っ赤なマニキュア、その後ろで、白とピンクの胡蝶蘭が咲き誇る。
僕は「国会の妖花」と書いた。

議員はこの記事をとても気に入ったようで、以後、僕は事務所にしょっちょう立ち寄るようになったし、政界再編の渦(のちに新進党は分解する)の中で悩みが絶えなかった議員から何度か相談を受けたこともあった。
美佳さんのことも、インタビュー記事の中でこんなふうにふれていた。
「秘書を務める二女の美佳さんも母親譲りの美貌。『議員会館の部屋には用もないのに新聞記者たちが訪れる』と今後評判になると予想される」

予想は100%的中した。新聞記者、カメラマン、ほかの事務所の男性秘書連中がいつもたむろしていた。
まもなくしてから僕は、美佳さんに「永田町の不思議」(毎週)というタイトルの連載エッセーを依頼した。
永田町ってところは典型的なムラ社会なのだ。ムラ独自の専門用語や、習慣や、掟があった。そんなもの、普通の社会に生きている人間には、縁遠いし、「えっ、こんな馬鹿げたことが通用しているの?」ってこともずいぶん残っていた。

僕も政治記者としてひよっこだったから、そんなムラの中で右往左往していたし、京都のお嬢様育ちだった美佳さんも面食らってばかりいた。

美佳さんはお嬢様育ちにしては、素直な人柄で腰も低い。好奇心も旺盛で、物怖じしない。「ごく普通の人の感覚で、永田町やその住人たち(議員や秘書ら)をスケッチしてみてほしい」と頼もうと考えた。
まずは、お母さんの保子議員に打診すると、「連載? いいんじゃない。美佳さん、あなた、やってみなさい」と口ぞえしてくれた。ただ、続けて「シゲさんも、いつも美佳、美佳って。たまにはわたしのところにも訪ねてちょうだいね」と言われてしまった。

美佳さんは、当初「文章が下手だから」と渋っていたので、連載1回目(小泉純一郎のことを話題にした)は僕が聞き書きした。今でも、その内容を覚えている。こんな話だった。

ある日、議員会館ですれ違ったとき、小泉さんは美佳さんに向かって、こう話しかけたという。
「美佳ちゃん、最近、やせたんじゃないの。これ以上、やせちゃダメだよ」
美佳さんは「小泉先生って、わたしのようないち秘書にまで気を遣ってくださるのねえ」と感激した。
その後、しばらくして作家の林真理子さんの夕食会に小泉さんがゲストでやってきた。真理子さんは美佳さんをとってもかわいがっていて、美佳さんもこの夜、一緒だった。
小泉さんは、真理子さんに会うなり、こう言った。
「真理子さん、少しやせたんじゃないですか。これ以上、やせちゃダメだよ」
このセリフを聞いた美佳さん、「なんだ、だれにでも同じように言っているのね」と興ざめしたという。

2話目以降は、美佳さん本人が執筆するようになった。僕も何度かアドバイスしたり、書き直したりしたが、文章はみるみるうちに上手になっていった。

「締め切り前は何を書こうか悩んでピリピリしてました」と本人は言っていたが、連載は好評で数年続いた。議員たちのお気楽「外遊」をなで斬りした回のときは、週刊文春に記事で取り上げられたこともあった。

その後、美佳さんはこの連載の経験を生かし、「永田町にも花を生けよう」(講談社)というエッセーを上梓した。
僕はうなった。彼女は、十分に才能あるエッセイストに成長していた。「文章が下手だから」としり込みしていた彼女がウソのような見事な筆力。おもしろくて、おもしろくて、僕は一気に読んでしまった。

数年前、美佳さんはNHKの政治部記者と結婚したのを機に秘書をやめた。最近は、池坊の仕事で京都にいることが多いようで、なかなか会うチャンスがない。
でも、きっとまた一緒に仕事ができると思っている。

ある年の夏休み、僕は家族と北海道小樽市に帰省し、子供たちをつれて「東洋一」(とPRしている)水族館に遊びにきていた。ちょうど、ペンギンたちの可愛らしいショーを見終わった直後だった。
「あら、シゲさんじゃありませんこと?」
聞き覚えのある声が、耳に飛び込んできた。
「だれだろう?」とあたりを振り返ると、池坊議員と、長女の由紀さんと赤ちゃん、そして美佳さんの4人がいた。
「ええーっ、なんでここに?」
僕はビックリしてしまった。
しばらく池坊家のみなさんと立ち話をしたところ、翌日、札幌市で開かれる新進党の候補者激励会で議員が応援演説する予定になっていた。1日、暇ができたので小樽まで足を伸ばして遊びに来たのだという。
それにしても、だ。なんというめぐり合わせだろうか。
水族館はかなり広い。夏休みで人出も多い。あのとき、ペンギンショーの場所にいなければ出逢うこともなかっただろう。

不思議な縁を感じた。
だから、きっと、また…。
僕は美佳さんと再会する日を心待ちにしている。


(2004/12/19)

先生、さようなら

ネットを検索していて偶然見つけた、「永山忠彦弁護士、死去」のニュースに「えっ、うそだろ?」と呆然とした。永山さんは、ロッキード事件丸紅ルートの主任裁判官で、田中角栄元首相に対する有罪判決を書いたことで知られる。その後、弁護士に転じたが、いつまでも正義感の強い人だった。ああ、なんてことだ! 僕の「恩人」が、またひとり、いなくなってしまった…。


訃報記事は次のとおり。
《永山 忠彦氏(ながやま・ただひこ=白鴎大法科大学院教授)9月28日、心不全のため死去、66歳。連絡先は同大総務部。告別式は近親者のみで行う。喪主は妻、紀美子さん。ロッキード事件丸紅ルートの一審で陪席裁判官を担当。リクルート事件公判では真藤恒元NTT会長の主任弁護人を務めた》(日経新聞)

永山さんにはじめて会ったのは、10年くらい前だったろうか。このころ、僕はさくら銀行(現・三井住友銀行)の副支店長と公認会計士が共謀して、複数の資産家から数十億円をだまし取った事件を追いかけていた。
僕のもとに、知人を通じて「助けてほしい」とすがるように頼み込んできた元三越の幹部が被害者のひとりだった。

彼は、公認会計士と幼なじみだった。あるとき、「お前のおやじさんは土地持ちだから、相続税が大変だぞ。おれにまかせれば、節税してやるぞ」とアドバイスされ、やがて資産を丸ごと騙し取られる羽目になった。手口は、土地を担保に銀行から巨額の融資を受け、その金をラブホテルの買収や、カラオケボックスの建設につぎ込む、というものだったが、事業はことごとく失敗し、担保の土地、マンションが次々、奪われていった。最後は、「これから脚光を浴びる産業」とそそのかされて産業廃棄物処理会社に10億円単位で投資するが、この会社はほとんど実態のないペーパー会社だった。

のちに、僕はここの社長に会うため、アポなしで事務所に乗り込んだが、いかにも「ヤクザ」といった風袋の男だった。内心、僕もビビったが、ヤー公のほうが「記者」にビビッていたようで、僕の質問にしどろもどろになり、テカをひとり置いて逃げ出してしまった。

永山さんの関係者も、この事件の被害者のひとりだった。

このときは取材で1、2回会っただけだったが、その2年後ぐらいだったろうか、平成9年の春、永山さんから「銀行の犯罪を告発したいので、話を聞いてほしい」と連絡があった。
永山さんは当時、東海銀行秋葉原支店の巨額不正融資事件で共犯とされた金融ブローカーの弁護人を引き受けていた。

この事件は平成3年の発覚当時、「戦後最大の金融スキャンダル」とセンセーショナルに報じられた。事件のあらましはつぎのとおりだった。

《秋葉原支店の支店長代理が起したとされる金融犯罪。知り合いの会社名義でノンバンクから数十億円ずつ借りさせ、それをそっくり同支店に預金させる手口。集めた預金を株、不動産に投資したが、バブル崩壊で運用に失敗、その穴を埋めるためにさらにノンバンクから騙し取る自転車操業を続けた》

僕も直接、取材したわけじゃなかったが、この事件のことは覚えていた。捜査を逃れようと、支店長代理と金融ブローカーがタイに国外逃亡したことで、「バブル紳士たち」の追跡が世間の注目を集めたからだ。
永山さんは、小柄でものすごく柔和な人柄。だが、不正を許さない強い信念をもっていた。銀行犯罪に詳しいわけではなかったが、持ち前の研究熱心さと、真実を見抜く目で、この事件に取り掛かった。そして「警察、検察、銀行がグルになって支店長代理らの個人犯罪の構図をデッチあげた。真相は、銀行ぐるみの犯罪である」との結論に達したという。

僕は、逃げ腰だった。
主犯の支店長代理は詐欺などの罪を認め、懲役11年の刑が確定し、服役中だった。永山さんの主張するとおりなら、警察、検察の捜査当局や、判決を言い渡した司法を相手に真っ向勝負しないといけない。「銀行ひとりを相手にするのだって大変なのに、捜査も判決も間違っていると戦うなんて、できっこないじゃない」というのが、僕の考えだった。

でも、まもなく永山さんの熱意が、僕の「記者魂」に火をつけてくれた。
当時、僕は政治担当で官邸に詰めていたが、その仕事を切り上げ、週2回、午後8時ごろから3時間程度、八丁堀にあった永山さんの事務所で事件のレクチャーを受け続けた。

はじめのころは、銀行内部のさまざまな専門用語が、ちんぷんかんぷん。
「通知預金」「(手形の)一覧払」「便宜扱」などの意味を覚えるところからはじまり、膨大な公判資料を読み込むのもひと苦労だった。

永山さんの事務所でのレクチャーは2、3月は続いたと思う。そのレクチャの合間を縫って、取材にも出かけた。ノンバンクの担当者らを都内のホテルの一室に呼び出し、数時間話を聞いたが、彼らも一様に「支店長代理ひとりの犯罪じゃない。銀行の支店長ら幹部らもすべて知っていた」と証言、永山さんが突き止めた「銀行ぐるみ犯罪」を裏付けた。

取材の過程で、支店長代理らがキリンビール、CSKなどの株券偽造にも手を染めていたことも判明した。僕は、偽造株券の作成を依頼された都内のインテリアデザイナーも突き止め、帝国ホテルで会った。
不思議なことに、警察、検察はこの偽造株券事件をヤミからヤミに葬っていた。なぜ? 「支店長代理に個人犯罪で罪をひとりでかぶれば、偽造株券の件は立件しないし、妻名義にした資産も取り押さえないと取引したんではないか」と推測された。

僕は、平成9年8月18日から7回、告発キャンペーン記事を書いた。第一弾は「東海銀行経営トップ625億円背任疑惑」。最後の2回は、永山さんが登場し、「銀行ぐるみ犯罪隠蔽、許せぬ」と鉄槌を下している。

永山さんとは、偶然にも生まれ故郷が一緒だった。永山さんはカラオケが好きで、よく「美空ひばり」などを唄っていた。

この報道の後も、永山さんから「世の中にはこんな不正があるんです。追求してくれませんか」と何度か呼び出されたことがあった。前にこのブログで話題にした「変額保険事件」を取材するようになるのも、永山さんのおかげだった。かつて永山さんから「シゲは正義感の強い記者だなあ」と褒められたことが、僕の誇りだ。

永山さんはこの2年ほど、医師と法律家が連携するNPOの立ち上げのために奔走していた。医師の医療ミスが報じられることが多く、医療不信が広がっている。医師と(患者側の)弁護士も対立し、溝を深める一方だ。

いま、医療の現場では医療ミスを恐れ、救急患者を自分のところで診ないで大学病院に送ろうとすることなかれ主義がはびこっている。もし、その間に患者が急変したらどうなるのか。せっかく救えた命を落とすことになってしまわないか。さらに、最近、外科医を志望する学生も激減しているという。
これは患者側にとって、困った事態である。対決の図式だけではなく、人の命を救うために今こそ医療と法律がスクラムを組もう、と永山さんは考えたのだ。

このNPOがやっと軌道に乗ろうとしている矢先の急逝。
関係者に聞いたら、仕事に追われまくっていたらしい。

NPOのほか、弁護士活動、さらに法科大学院の教授として学生たちを指導するのに熱心だった。たまに休みが取れると、家族サービスも。

どんなことでも手を抜かない人だったので、疲れがたまっていったのだろう。亡くなった日も仕事をしていたが、事務所のスタッフに「きょうは疲れてしまって…」と言い残し早退したという。

永山さんは、ロッキード事件のことを書き残しておきたい、という希望があった。角栄元首相については「質問にまともに答えない人」という印象が残っていると話していた。書き残していれば、貴重な歴史証言になったはずだ。なぜ、もっと強く勧めなかったのか。僕は、このことが悔やまれてならない。

永山先生、「先生の優しい笑顔と、不正を許さない芯の強さ」を僕は絶対忘れません。

(2004/12/13)

またひとり、いなくなった

硬骨のジャーナリストがまた、ひとり世を去った。

本田靖春さん。享年71歳だった。
昭和8年、旧朝鮮・京城(現ソウル市)生まれ。
30年早大卒。読売新聞に入社し、社会部記者として活躍する。
45年退社後、吉展ちゃん誘拐事件を描いた「誘拐」、差別問題に根ざした金嬉老事件を題材にした「私戦」、読売時代の先輩記者のことを取り上げた「不当逮捕」など、迫真のノンフィクションを次々と執筆した。

記者を志望してからというもの、僕はこれらの著作をむさぼるようにして読んだものだった。
僕にとっては、「不当逮捕」がもっとも印象深かった。
無頼派で、アウトローで、野生児で、今のサラリーマン化した優等生的な新聞記者とはまるで正反対の「ブンヤ」が、そこにいた。

以前、このブログで僕が「師匠」として尊敬しているジャーナリストとして斎藤茂男さん(元共同通信編集委員)のことをあげたが、あと2人、「はるかかなたの目標」にしていたのが、朝日新聞の「天声人語子」の深代惇郎さんと、この本田さんだった。

僕が記者になった当時、深代さんはすでにお亡くなりになっていたが、斎藤さんには1度、お目にかかることができた。

本田さんにもぜひ会いたいと思っていた。
数年前、取材を申し込んだが、「体調を崩していて、取材はとても無理です」と断られていた。かえすがえすも残念だった。

僕はしょせん、できの悪い記者で終わりそうだが、先輩たちの残してくれた「記者魂」だけは受け継ぎたい、と強く思う。

(2004/12/7)

再会

今夜、大手町の居酒屋で懐かしい人と4年ぶりに再会した。
以前、彼女は新進党のマドンナ議員の秘書をしていた。僕は当時、政治担当で官邸に詰めながら国会、議員会館を歩き回っていたが、ほぼ毎日、用もないのに彼女のところに寄ってはダベっていた。


あのころ、僕が必ず立ち寄っていたのが、池坊保子議員、丸谷佳織議員、小池百合子議員、佐藤謙一郎議員、坂井隆憲議員、小泉純一郎議員の各事務所。もちろん、会うのは議員本人ではなく、秘書の方たちだった。このうち、小泉さんは首相になり、坂井議員とその秘書、塩野谷晶さんは刑事被告人に転落してしまった。何が、人生の明暗を分けたのか、不思議な気がする。

池坊さんの事務所には、二女の美佳さん(とっても美人!)が秘書でいた。僕は彼女に週1のエッセー(「永田町の不思議」というタイトルだった)を連載してもらっていたので打ち合わせに行くと、たいてい男性秘書連中が用もないのにたむろしていたものだった。

「ハハン、こいつら、美佳さん目当てなんだな」とすぐわかった。「はい、お前ら邪魔、邪魔。こっちは仕事なんだからね」と追い出そうする僕と、奴らの間で、バチバチ!と火花が散ったものだった(?)。
小池さんの女性秘書は、子育てで悩んでいた。高校生の男の子がいるけど、最近、息子が何を考えているかわからないとこぼしていたので、僕は渡辺淳一の「男というもの」をプレゼントした。数日後、彼女から「息子もこういうこと考えてんだろうなあって、よくわかったわ」と連絡があった。

塩野谷さんのことは、胸が痛い。
逮捕されてから、週刊誌などにさんざんなことを書かれてきたが、僕が会っていた彼女は真面目で、一生懸命で…。一言でいうと、頑張り屋さんだった。

政治担当になる前、僕は彼女を記事で取り上げたことがあった。たしか「小沢・新進党つぶしに自民党が放つ隠し玉は、永田町1の美人秘書」というタイトルだった。
その後、僕が主宰する会に誘ったこともあった。議員会館の部屋ではしょっちょう会っていたし、こっそり彼女からネタを教えてもらったこともあった。彼女に「ねえ、おもしろい人を紹介してよ」と頼んで、「永田町の占い師」と知り合いにもなった。

思い出すと、たしかにいろんなことがあったよなあ。
久しぶりに彼女と再会して、話が弾んだ。
彼女は、秘書を辞めて米国の大学・大学院に留学し、帰国後はコンサルタントとして働いているという。米国で知り合った人脈は金融関連の人が多く、僕のテーマが「投資」だと知ると、何人も紹介してくれると言っていた。
笑顔がチャーミングな彼女は、米国ではモテモテだったそうだが、いまだ独身。日本に帰ってきたら、「負け犬」と呼ばれる世代だった。「わかった。じゃあ、僕は君に独身(またはバツイチ)の男性を次々紹介するよ」と約束した。

僕たちは、再会する運命だったのだろう。だって、話の途中で判明したのだが、自宅もご近所。しかも、通っているフィットネスクラブも同じ(プールで会っていたかも?)。
これからは彼女を時々、誘おうーっと。

でも、その前に…。
あすの朝、胃とすい臓、肝臓の検査が待っている(イヤだなあ)。

(2004/12/3)

あしたはどっちだ

きのうの夕方、重役のお供で会計士事務所に向かった。道すがら、重役氏から「来年の景気はどうなると思う?」と突然、聞かれ、一瞬どう答えようか戸惑った。
「中国の経済成長の恩恵を受け、堅調に推移すると思う。企業もリストラで利益を出しやすい筋肉質の体型になった。ただ、すべての企業がよくなるわけじゃない。野球界を見てもわかるように、いまや新旧交代期です。まだら模様でしょう」などと、当たり障りのない返答をした。
最近、株を含め、先行きがまったく読めなくなった。しばらく体調がよくなかったせいもあるんだろうが、世の中の空気、流れる風向きを感じる僕自身のアンテナが、ちょっとサビついてきたのかもしれない。


かつて聞きかじった算命学によると、国家は50年周期で「陰」と「陽」を繰り返すという。これを日本に当てはめるなら、敗戦の焼け野原から経済大国へ向かった戦後50年は、明らかに「陽の50年」だった。だが、それも1995年ごろに終わりを告げ、いまは「陰の50年」に突入しているところ、ということになる。
事実、95年には阪神大震災、オウム真理教事件が発生している。まさしく、陰の50年の幕開けにふさわしい事件、天災に襲われた年だった。その後も、凶悪犯罪が続発している。もしも、算命学の教えが正しいのなら、僕たちは「陰」の中で生きていく知恵を編み出さねばならない。「年収300万円時代」は、そうした時代のひとつの考え方かもしれない。

最近、帝国ホテルの親会社、国際興業をハゲタカファンドと呼ばれる米系投資ファンド、サーベラスが買収するとの報道があった。また、倒産した温泉ホテルの名門、古牧温泉をゴールドマン・サックスがスポンサーになり、支援することも明らかになった。
僕たちが「陰の50年」の幕開けに、立ちすくんでいたのと正反対に、外資は数年前から、都心の土地、破綻したゴルフ場を買いあさり、最近はホテル、観光地の買収にまで手を広げてきた。
さらに商法改正(06年の見込み)で株式交換で企業買収ができるようになれば、日本の大企業(世界企業に比べると、10分の1程度の時価総額にすぎない)なども瞬く間に外資に買収されるだろうと予測されている。

僕たちは、自分たちの価値に気づいていない。気がついたら、大切なものを、ほとんど外資に買われてしまう、ってこともありうるんじゃないだろうか。
先日、ラジオを聴いていたら、ビックリする話題を取り上げていた。
中国から来た観光客に「なぜ、日本に来たのか」、その理由を聞いてみると、
1位は「雄大な自然があるから」だった。
そのときは、何、言ってんだ!って笑ったけれど、よーく考えてみると、そうかもなあ、と思えてきた。
もちろん、雄大さで中国と日本じゃ比べものにならないけど、中国の場合、秘境すぎて(つまり危険で)、観光に行けない。この場合、観光じゃなく、命がけの冒険になってしまうのだろう。
日本の箱庭のような自然が、観光には適しているのかもしれない。しかも、交通の便、宿泊施設の充実、日本流おもてなしの心、などなど、観光客をひきつける要素がいっぱいある。
最近は「箱根」「熱海」「鬼怒川」などのブランドも落ち込んでいるようだが、やり方ひとつで再生ができるんじゃないか。だからこそ、外資も目をつけているんだろう、と思う。

だが、いまさら気づいても、ハゲタカに食い散らかされた後となってしまうのだろうか。
世のおばさまたちは、ヨン様めがけて突っ走ったが、僕たちはどこに向かえばいいのだろうか。

ジョー、あしたはどっちだ。

(2004/12/3)

目標、年間1000人!

出版界の名物編集長として知られる花田紀凱さんがこのほど、新雑誌「WiLL」(月刊)を創刊した。花田さん本人は「75点」と自己採点していた。


長嶋一茂の「わが父、長嶋茂雄」というインタビューや、横田早紀江さんと櫻井よしこさんの対談、歌手の谷村新司さんのエッセー、「噂の真相」の元編集長、岡留安則さんのコラムなど、「さすが!」と思わせる内容が並んでいる。

総力特集には「厄介な国、中国」をもってきているが、つい最近、古巣の文藝春秋が中国特集を展開していたから、「これはひょっとして、古巣への宣戦布告のつもりなのかな?」と思ったりもした。

僕たち記者も、この一冊から教わることは多い。巻末の「編集部」からに、新人編集者が「編集長、とにかく粘る」「そうしたハラハラドキドキのなかでおもしろい雑誌のつくり方は叩き込まれていく」と書いてあった。

僕が花田さんに直接、お会いしたのは1度。花田さんは週刊文春の編集長だった。

当時の週刊文春は統一教会スキャンダルをはじめスクープ連発、週刊誌ジャーナリズムの先頭を突っ走っていた。

「なぜ、これほどスクープできるのか。おれなんか、めったにスクープなんか取ってないのに…。名物編集長ってどんな人?」という興味で、会いに行った。

花田さんの印象は「少年みたいな人」。

僕は、心のどこかでどっしりとした重厚感のある大物編集長像を描いていたが、まるで違った。さわやかで、軽やかで、純真で、興味があることに一途で。話を聞いていて楽しかった。

2つのことを今でも覚えている。

元フジテレビアナウンサーだった逸見政孝さんが、がんで壮絶死を遂げた直後、花田さんは晴恵夫人の手記をスクープした。だれもが話題の人の手記を狙うが、悲しみにくれている人の心を動かすのは容易なことではない。どのようにして琴線にふれたのか。花田さんは何度も手紙を書いたと言っていた。文面には、晴恵夫人の心を動かす言葉があったのだろう。
まわりが休みに入る年末年始も、花田さんは手記獲得のため逸見家へ向かった。昼過ぎだったため、花田さんは昼食をすましていたが、晴恵夫人が食事を用意してくれた。「いえ、食べてきたので…」と断れないので、「わあ、おいしそうですね」と言いながら平らげたと、インタビューのとき苦笑しながら打ち明けてくれた。

スクープのコツ、その1。人が休んでいるときこそ仕事しろ!

当時の編集部員によると、とにかく花田編集長は席にいない人だったという。ひたすら人に会いに行っていた。パーティーに出席すると、何十枚もの名刺をおみやげに持ち帰った。花田さんは「1日3人、年間1000人、新しい人に会うこと」を目標にしていると話していた。

スクープのコツ、その2。年間1000人と出会え!

この話を聞いてから、僕も毎日、手帳に、何人(初対面の人に限る)と出会ったかを記録するようになった。記者としていろんな人に会っているつもりだったが、意外にも同じ人と会っていることが多く、初対面の人と毎日3人会うというのはとても大変なことだった。じつは僕は、一度もこの目標を達成したことがない。毎年、300人から500人程度。最近は外に取材に出る機会が減ったので、今年は11月30日現在で244人だ。つくづく、花田さんの偉大さを実感している。

ただ、今回の創刊号を見て「花田時代は終わったんだなあ」という気もした。どうしても、かつての週刊文春のテイストに近い。花田さんの心の中では、かつての週刊文春が「100点」(創刊号の自己採点75点)に近いのではないか。僕たちは、ミニ週刊文春を見せられても、ときめくようなインパクトは感じられないのだ。

成功体験の呪縛。昭和のカリスマ経営者たちが相次いで世間から退場していくが、彼らの失敗の多くが、成功体験にとらわれたことだと思う。人間誰しも、成功が続くと、次も同じ方法で成功すると考えがちだ。が、いずれその成功の法則が通用しなくなる。だが、成功体験にしばられていると、そのことに気づかなくなってしまう。

株式投資を経験していると、このことを実感する。去年は、ある投資方法で成功したのに、1年たつと通用しなくなる、ということがよくあるのだ。絶えず、自分の成功体験をぶち壊し、新たな成功の法則を見つけないといけない。

メディアの置かれた現状は、過去の成功体験をぶち壊す時期に来ているのではないか。それは、「ブログ」の流行(双方向発信、マスではない個のメディア)からも感じられる。新しい流れが奔流のように噴き出し、古いメディアがあっという間に飲み込まれるのではないか。

いまやメディアも明治維新前夜のような、開国を迫られている時期かもしれない、とマスコミの体制内にいる僕も思っている。花田さん、こうした時代に気づいていれば、今は雑誌を創刊している場合じゃないんじゃないでしょうか。

(2004/12/1)

事件が呼んでいる?

けさの新聞(日経新聞)を見て驚いた。

「三井物産、データねつ造 排ガス浄化装置」「ディーゼル車規制 性能偽り販売」と1面に大きな記事が出ていた。

4日前の先週の金曜日、物産のOL8人と昼食をかねて同社でミーティングをしたばかりだった。わが社では、丸の内のOL向けの経済・金融セミナーの企画を考案中で、物産の知人に頼んで30代前後のOLのみなさんを集めていただいたのだ。

同じ大手町同士のご近所なのに、物産本社を訪ねたのは6、7年ぶりだった。

かつて物産には、経団連副会長を務めた名物経営者の八尋俊邦さん(3年前死去)がいた。

「ネアカ、のびのび、へこたれず」が信条で、大の巨人ファン(とくに王監督ファン)、小池百合子さんが政界に挑戦するさいの相談役でもあった。

八尋さんは東京商科大学(現一橋大学)卒業後、1940年に三井物産に入社。化学品畑を歩み、79年6月から6年間、社長を務めた。会長などを経て2000年6月からは同社顧問。87年に勲一等瑞宝章。

次のエピソードも有名だ。

八尋さんがゴルフ仲間に出す招待状には「雨天の場合は連絡します」との一項が入っていない。なにがあってもゴルフ場に出てこい、という意味なのだ。八尋さんは「ラグビーを見ろ。雨の日のどろんこのなかで闘うのは美しい。経営も、人生もこの心がけでいかなくては」と語っていたという。

日米貿易摩擦が激しい時代、ブッシュ大統領(現・ブッシュ大統領の父)が米自動車メーカーのトップらを連れて来日したことがあった。「黒船外交」とも呼ばれた。

八尋さんは当時、名誉会長で経営の一線を退いていたが、舌鋒は鋭かった。僕は2度、日本側の対応についてインタビューした。弱腰・日本外交の常だが、このときの玉虫色決着を、八尋さんは「バンソウコウ合意だ!」と辛口で批評していた。

長島ジャイアンツが低迷したときは、巨人再建案をしょっちょう聞きに行ったものだった。

「原は中間管理職タイプ」などと野球選手をサラリーマンにたとえ、部下操縦術のひけつや経営トップの心構えなどを教えてくれた。

社員食堂で、ランチをごちそうになったこともあった。八尋さんは、社長になってまもなく、三井物産が社運をかけた日本とイランの合弁プロジェクト、IJPC(イラン・ジャパン石油化学)事業の撤退、清算を決断した。IJPCはイラン革命、イラン・イラク戦争の激動に翻弄され続け、このまま続けていれば、物産の致命傷になっただろう。

八尋さんは「やれ!と指示するのは簡単ですよ。でも撤退を決断することほど難しいものはない」と述懐していた。

今回の「データ捏造」というスキャンダル、八尋さんが存命ならどうカツを入れただろうか。僕は、「ネアカ、のびのび、へこたれず」の八尋イズムをもう一度、思い出せ!と言いたい。

それにしても、訪問した直後のスキャンダル発覚。以前、ライオンの広報部長に取材ぶりをほめられ(あまりにも広報部員がぞんざいだったので激怒したのが、かえってよかったらしい)、千葉工場の見学に連れていってもらったことがあった。
ところが、1か月後、その工場で爆発事故が発生!事件・事故が僕を呼んでいるのか、それとも不吉な「疫病神」なのか?さあ、僕が次に向かうのは…。(お気をつけあそばせ!)。

(2004/11/23)

レストラン深澤

きのう夕方、生島ヒロシさんプロデュースの株のムック本の仕事(アルバイト?)で宝島へ。その後、近くまで来たから久しぶりにレストラン深澤(麹町)に寄ってみた。

たしか半年ぶりぐらいだった。

「いやー、懐かしいなあ」

いろんな思いが走馬灯のようにめぐってくる。店のたたずましいは以前とちっても変わっていない。そして、オーナー夫妻がとても暖かく迎えてくれて、うれしかった。

ここは35(さんご)の会の例会の会場だった。35の会は、昭和35年生まれが35歳になる年に発足し、昨年秋、休会するまで8年以上続けてきた。

毎月15日(3*5=15)に例会を開いていた。

向上心のある人たちが集まっていたので「刺激になった」とか、「会に来ると元気がもらえた」とか、「たまに来ても、みんながアットホームに暖かく迎えてくれて、楽しかった」などと言ってもらえた。

ただ、「平成の梁山泊」などと熱い思いで始めたつもりが、毎回泥酔しちゃう僕のせいで、ただの飲み会になるケースも目立ったし、僕自身のボルテージも下がってしまい、いまは休会中。

店のママがこんな思い出を語ってくれた。

「中村うさぎさんも、まだこれほど有名じゃなかったときですよね。角川春樹さんの奥さんも会に来た直後、離婚されてマスコミで大騒ぎになってました。フラワーアレンジメントの花千代さんも、その後テレビで時々見かけます。シゲさんの人脈ってすごいですね。連れてくる人たちが、しばらくたつとみんな有名になっていくんですもの」

思い起こせば、そうなんだよなあ。あの叶姉妹も赤坂の秘密クラブで会ったときはまだ無名に近かったのに、こんなにメジャーになるし、女優の長谷川京子も綾瀬はるかも僕が取材した後、ブレークしたし。それなのに、本人の僕だけは、いつまでもうだつが上がらない…(涙)。

お店には、いくつもの花(生花やブリザード)が飾ってあった。その中のひとつが、あれっ、見覚えがあると思ったら、35の会を休止したとき、長年お世話になった感謝の気持ちを込めて贈ったブリザードフラワーだった。

「まだ、飾っていてくれたんだ!」

なんだかジーンときちゃった…。「35の会」でのさまざまな出会いは、僕にとって最高の人生のプレゼントだったと今、しみじみ、そう思う。メンバーとの友情は、一生大切にしたい。

(2004/11/20)

刀削麺荘

西安料理の店「刀削麺荘(とうしょうめんそう)」ってご存知ですか?

僕はこの夏、中国語のスクールの後、クラスメートに「おいしい店があるから行きましょう」と連れていってもらった。

店の名前にもなっている「刀削麺」とは、麺のもとになるものをこねて固まりにしたあと、ぐつぐつ煮えたぎるナベに、これを豪快に削り取ってゆであげる料理。このパフォーマンスは一見の価値あり。僕たちは、ショウロンポウや鉄板ギョーザなども食べましたが、とてもおいしかった。おまけに値段はリーゾナブル。ただ、いつ行っても混んでいるので、入るのに一苦労だけど。

10月から、テレビ、新聞、雑誌で活躍中の藤沢久美さん(ソフィアバンク・ディレクター)に「グリーンシート入門」を連載してもらっている。

グリーンシートとは、日本証券業協会が管理、運営している未上場企業に投資するマーケットのこと。ハイリスクではあるが、若い起業家たちを応援し、日本経済を活性化させるとても大切なマーケットだと思う。もっともっと投資家たちに、このマーケットの存在を知らせることが、報道の役割だとも感じていたので、「社会起業家フォーラム副代表」を務め起業家を応援している藤沢さんに連載執筆をお願いした。

その藤沢さんが先日、グリーンシート銘柄のひとつ、「大秦」(だいしん)という会社のことを書いてきてくれた。

その原稿を読んで、初めて気づかされたのだが、この「大秦」が刀削麺荘を運営している会社だったのだ。社名は、大いなる(大)西安(秦)という意味。

藤沢さんによると、「社長の横山氏が中国を旅するなか、西安で、誰もが豪快に笑い、大声で話し、酒をくみ交わして、食事を心から楽しみ、中国語が分からない横山氏まで、無性に楽しくなってくる空気に感動し、その食文化を日本にも紹介したいという想いから、この会社は生まれた。

日本では、居酒屋やレストランも個室化が進み、静かに食事を食べる傾向が高まるなかで、あえてにぎやかな店を作り、人気を博した」という。

横山氏は、何度も西安を訪れ、市長をはじめとした政府関係のネットワークを深め、西安の宮廷料理人経験者たちが「刀削麺荘」で働ける道筋を作り上げた。「つまり、刀削麺荘で出てくる料理は、西安でも一流の料理人が作る西安料理なのです」(藤沢さん)。

僕は、藤沢さんの原稿を読んで、なるほど、あの店にはこうした社長の熱い思いやストーリーが込められているのかと知り、ますます身近に感じるようになった。

ちなみに藤沢さんのオススメは「ショウロンポウとなすの山椒揚げが絶品です!」とのこと。きょうの昼、「さて、何を食べようかな」と神田までひとり、ブラブラ歩いていたら、「刀削麺荘」の看板が目に入った。へえー、こんなところにもあったのか。いままで、しょっちゅう通りすぎていたのに、全然気が付かなかった。

不意に「青い鳥」のストーリーが浮かんできた。自分のすぐそばにあるのに、見過ごしているもの、通りすぎているものがあるんだろうなあ、きっと…。

(2004/11/6)

続々・君死にたもうことなかれ

14年前、ベストセラーになった「死体は語る」の著者、上野正彦さん(元東京都監察医務院長)にインタビューした。

上野さんは30年間の監察医の経験を本にまとめたところ、評判を呼び、本邦初の「死体作家」を名乗っていた。

監察医とは、いわゆる変死体(医師にかからず死亡した突然死や、不慮の中毒死、災害事故死、病死なのか犯罪にかかわりがあるのかわからない不自然死など)を専門に扱う。検死、解剖でその死因をはっきりさせるのが役目なのだ。

統計では、死者総数の15%が検死が必要な変死体とされる。上野さんは30年間で、死者2万人(検死1万5000体、解剖5000体)と対面した。推理小説まがいの事件にも数多く遭遇したという。

たとえば…。

「幼女がはいはいして石油ストーブにぶつかった。運悪く熱湯の入ったヤカンが背中に落ちて大火傷を負い、まもなく死亡。検死をすると、背中に丸い火傷があった。ストーブの上のヤカンが落ちたなら、熱湯は不整形に背中に飛び散るはず。『誰かが嘘をついている!』。実は、知恵遅れの子供の前途を悲観した母親の仕業だった…」

「風邪で会社を休んでいた課長がカプセル入りの薬を飲んだところ、容態が急変、死亡した。外見からは死因がつかめないため、解剖したところ、胃から青酸が検出された。警察の調べで、その家の祖父が病弱なため、自殺しようと風邪薬の中身を抜き取り青酸を詰めたが、そのまま忘れていたことがわかった」

上野さんは「死人に口無しというが、否、雄弁です」と話していた。

上野さんの父は北海道の片田舎の町医者だった。貧しい人から治療代を取らない「赤ひげ」のような人で、そんな父の姿を見て育った上野少年は「大きくなったら医者になる」と誓っていた。はじめは臨床の名医を目指したが、医学部(東邦医科大)を卒業したくらいの実力で患者の前に立つ自信はなかったといい、監察医を「2、3年くらいやって…」と考えたことがその後の人生を決めた。

監察医を辞めた後も、新聞の3面記事(事件)を読むのが日課。最近も、大きな事件があると、ワイドショーなどのメディアに引っ張り出されている。

「メッタ刺しなんて事件があると、犯人は陰惨、陰湿な性格とコメントするこ学者がいるが、あれは間違い。弱いから恐怖心におののいて、トドメを何回も刺そうとするんです。結果、むごたらしい事件に見えるが、陰惨な性格とか、怨恨だとかみると、捜査の道を誤ってしまいますよ」

インタビューを終えた後、著書にサインをお願いした。
すると、「死」が当たり前の生活を過ごしてきた上野さんがしたためたのは、この一文字だった。

「生」。

(2004/10/31)

続・君死にたもうことなかれ

もう一人、早死にした友人のことを思い出した。

彼の名は中村令貴(のりたか)さん。

東京地裁に書記官として勤めていたが、昨年8月、心臓発作のため帰らぬ人となった。享年45歳。

彼は前年の暮れ、2度目の心臓発作で倒れ、「あと数日しかもたない」と医師から宣告されていたにもかかわらず、奥様の必死の看病もあって8か月も頑張り続けた。だが、奇跡はついに起きなかった。

僕にとって、彼との出会いはかけがえのない思い出である。といっても、美しいエピソードに彩られているわけではなく、記憶に残っているのは、小汚いボロアパートと、貧乏生活と、たばこの灰と、徹夜してまぶしい朝、など。

彼の訃報(ふほう)に接したとき、「ああ、俺たちの青春は過ぎ去ったんだなあ」と改めて思い知らされた。彼の死の直後、「惜別の詩」と題して、次の追悼文をしたためた。


「惜別の詩」

いまから24年前、昭和54年4月…。

中央大学(東京・八王子)に入学した僕と中村が会ったのは、新入生のオリエンテーションだった(もうだいぶ忘れているけれど)。

8号館のだだっ広い教室で、履修講座の取り方などに関する説明を受けていた。

「おい、教室の裏に出ろ! 決着つけてやろうじゃないか!」

いまでは理由も定かではないけど、僕は隣に座っていた同級生の胸倉をつかんでけんかをふっかけていた。その騒ぎ自体は、相手が謝ったので、おおごとにならずに済んだけど、そのとき、近くで目撃していたのが、中村だった。

「ビックリしたぜ。入学早々、裏に出ろ! だろ」
「いやー、本気じゃないさ。生意気なヤツだったから、ちょっと脅かそうと思っただけだよ」

中村は2浪して三重から東京へ、僕は現役で北海道から東京へ。だから、中村が2歳年上だった。まもなくして、2人はやたら親切な先輩たちにいるサークルに言葉巧みに誘いこまれた。かわいい女の子たちもいるし、このサークルは楽しかった。ただ、頭のよさそうな先輩たちが勉強するようにすすめる本が「韓国からの通信」など思想がかっているものばかりだったので、「おかしいよなあ」と疑問に感じるようになった。

田舎学生は「思想」とは無縁だったから、コロッとだまされるところだった。いろいろと調べて、「民生」だとわかったので、3か月ほどして辞めた。

中村と、しょっちゅう会っていたのは、この3か月間だったと思う。

その後、僕はバイト(喫茶店など)と放送研究会(ラジオドラマ制作)にのめりこみ、中村はバイクや司法試験の勉強に専念するようになったからだ。

中村は口が悪くて、会うと「おう、このボケ!」というのがあいさつだった。が、実際は面倒見のいいヤツで、貧乏だった僕たち(仕送りがなくなると、空き瓶を集めた。たしか1ビン10円と引き換えてもらえた)が家に行くと、「腹減ってないか。いま親子丼つくってやるぞ」と、よくメシを食わしてくれた。

僕のことは、最初の印象から「無頼派」だと買いかぶってくれたようで、知り合いが増えると、僕を紹介し、そのあとで「俺は面白いヤツだと思ったんだが、どうだ、骨のあるやつか?」などと僕に聞くのだった。

「まあ、二流だな」中村が買いかぶってくれているのを裏切らないように、精いっぱい、ツッパって答えた僕(今だから言うけど、骨が折れたよ)。「無頼派」でも「硬派」でもなく、弱虫で泣き虫で、それを隠そうとツッパっていたのが本当の僕の姿だったのだ。

中村の家に、よく泊まった。必ず徹夜になった。2人とも大のバクチ好き、花札の「こいこい」の勝負で熱くなっていた。たいてい、この勝負は中村の勝ち。負けず嫌いの僕が、まだまだ、まだまだ、と繰り返し、気が付くと、夜が明けているのだった。

「チクショー、また負けたのか」。

賭け事の負けは即金払いで、サイフはすっからかん。中村はといえば勝ち誇った顔をし、タバコをうまそうにくゆらす。

「オラ、貧乏人、コーヒー、めぐんでやるぞ」

僕は、ギリギリと歯軋りしながら、ヤツがミルでひいてくれたコーヒーを飲むのだった。

あの当時の学生が住んでいたのは、たいてい6畳一間のアパートだった。ところが、中村が鼻高々に、「お前たち貧乏人とは違うぞ。なんと二間ある部屋に引っ越したんだ。おい、見にこいや」と言う。

もう一人、仲間の「坊ちゃん」(ボンボン育ちで、僕があだなをつけた。顔が似ているので、ドラえもんとも呼ばれた)と一緒に、新居を見に行くと、確かに二間だった。ただし、3畳二間だった。

「おい、これじゃ、かえって住みにくいじゃないか」と大笑いしたものだった。

僕も、入学したころは、弁護士を目指したが、あっという間に落ちこぼれて、女のコの尻ばっかり追いかけるようになっていた。

「お前は、どうしていつも違う女と歩いているんだ」。

中村がそう言うと、「モテナイ男はひがむな」と返していたけど、実のところ、僕もモテていたわけじゃなく、フラれてばかりだった。

「司法試験に受かったらな、ご令嬢さまからいっぱい見合いの話がきて、よりどりみどり。俺は、お前みたいに手近なところで捕まえないのさ」。

ヤツは、よくそう自信満々に言っていた。

中村に半分壊れかけたテレビをプレゼントしたことがあった。こっちにとっちゃ、粗大ゴミに出さなくてラッキーって感じだったんだけど、喜んでくれた。中村の部屋で、映りの悪いそのテレビを見ると、歌謡番組で中森明菜が歌っていた。

「だれ、これ?」

当時、人気絶頂だった歌姫を、中村は知らなかった。つまり、それほど試験勉強に没頭していたのだ。会えば、悪口の応酬ばかりしてたけど、「お前ならきっと通るよ」と内心、応援していた。

とはいえ、迷惑はかけっぱなしだった。社会人になってから、ますます飲んだくれた僕。ところが、金がないので、タクシーで家に帰れない。

「おい、中村、今○○にいるから、迎えに来てくれ!」

いつも、深夜1時、2時。多分10回じゃきかないだろうな。でも、一度もイヤな顔をしたり、断ったことがなかった。酔っ払いをバイクの後ろに積んで、自分の家へ連れかえってくれた。そして、朝になると、メシまで。

ここ10数年くらいは疎遠だったが、優しい奥さんをもらい、3人の子どもに恵まれ、幸せな家庭を築いていた。ヤツと会えば、いつだって、「青春」時代に戻れると思っていた。それなのに…。先に逝きやがって、大馬鹿野郎!

(平成15年8月19日記)


いまも、ヤツがベッドで闘っている姿を思い出す。無念だったろう。お前の分まで、俺は楽しく、めちゃくちゃ楽しく、生きてやるぜ!

(2004/10/31)

君死にたもうことなかれ

最悪の結末に終わったイラク人質事件のニュースを見て、与謝野晶子の詩「君死にたもうことなかれ」を思い出す人が多いだろう。生きてさえいれば…。

君死にたもうことなかれ(与謝野晶子)

ああおとうとよ 
君を泣く君死にたもうことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺(さかい)の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたもうことなかれ
旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも
ほろびずとても
何事ぞ 君は知らじな
あきびとの家のおきてに無かりけり

君死にたもうことなかれ
すめらみことは 
戦いにおおみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し
獣(けもの)の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されん

ああおとうとよ 戦いに君死にたもうことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまえる母ぎみは
なげきの中に いたましくわが子を召され 
家を守(も)り安しと聞ける大御代(おおみよ)も
母のしら髪(が)はまさりぬる


暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にいづま)を
君わするるや 思えるや
十月(とつき)も添(そ)わでわかれたる
少女(おとめ)ごころを思いみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたもうことなかれ



僕もこの詩は思い出深い。

高校2年生のとき、同級生の男子が鉄道に飛び込み自殺をした。
クラスが違ったうえ、地味でおとなしいタイプだったのでほとんど面識がなかったが、やはりショックだった。

放送局でラジオドラマを制作していた僕は、彼の死の波紋を翌年、ドキュメンタリー作品にした。校内の同級生を片っ端からインタビューしてまわったが、自殺の真相はつかめなかった。

いまのような取材力があれば、違ったんだろうが。

驚いたことがあった。同級生の数人が「わたしも自殺したいと思ったことがある」と告白したことだった。そのうちのひとり(女子生徒)のことが今も忘れられない。

「洗面器にお湯をためて、カッターで手首を切った。真っ赤な血でポタポタとたれた。お湯が鮮血に染まっていく。おかあさん、おとうさん、ごめんなさい…」

彼女は、今でたとえるならタレントの西村知美に似た、ほんわかとした性格の、チャーミングな人だった。

「ほら」。

彼女は、自分の左の手首を僕の目の前に差し出して見せた。そこには、カッターで切った生々しい傷跡が何本も残っていた。

一見、ほんわかとした彼女の内側には「死」をもいとわない激情が隠されていたのだ。

「でも、おかあさん、おとうさんのことを考えたら、私が死んだら悲しむだろうなって。やっぱり死ねないなあと思い直した」と言い、はにかむように微笑んだ。

「そうだよ、死んだらおしまいだよ。生きてたら、楽しいこともいっぱいあるよ。僕たちはちっぽけな存在だけど、世の中に役に立つことだってあるかもしれないよ」。

僕はこんなことを彼女に伝えたいと思ったけど、きちんと伝えられたか自信がない。でも、こうした気持ちを作品にこめたつもりだった。

僕のいた放送局は、かつては道内でも名門だったが、当時は活動が振るわなかった。とくに2年続けて、NHKコンクール(通称Nコン、全国の放送局がラジオドラマ、ドキュメンタリー、アナウンス、朗読部門で競い合う)で予選落ちという惨憺たる状況だった。

僕は、この放送局で遊んでばかりいた。暇さえあれば、同期、後輩たちを引き連れて、廊下でピンポン野球をしていた。ここぞというときは、決め球のライジングボール(球速の速いピンポン玉が浮き上がってくる)で、バッタバッタと三振を取った。

かと思えば、部室では女子部員たちとトランプ遊び(ナポレオン、大貧民など)。ところが、そんな僕を先輩が次期局長に推挙したから、波紋が広がった。

いつも真面目に局内の仕事をしていた男子が局長になるもんだと思われていたからだった。僕もそう思っていた。結局、投票で決めようということになった。

その結果、男子部員は全員、僕じゃないほうへ入れた。

僕自身も彼に一票入れた。だが、女子部員は全員、僕に投票した。

当時、女子のほうが多かったので、僕が次期局長に正式に決まった。このあと、さんざん嫉妬に悩まされたけど、気にしないフリをした。なりたくて局長になったわけじゃないけど、なった以上は責任がある。僕は必死だった。

目標は「Nコン」に置いた。

スポーツで言うなら、インターハイのような大会だったのだ。せめて予選は通過したい。そうすれば、局内が盛り上がり、みんなの自信とやる気を取り戻すことができると考えていた。

3年の春、地区予選の発表日。僕にとっては「運命の1日」だった。部員たちがほぼ全員、駆け付ける中、ついに結果発表の瞬間がやってきた。ドキドキ、ドキドキ…。はたして結果は?

僕の作品は予選1位だった。想像以上の評価だった。後輩の作品も2位(3位までが予選通過)。さらに、朗読部門に出た女子アナウンス部員も1位になった。2年続けて予選を通過できなかったのに、なんと3つも全道大会に出場することができるようになった。

僕は、人目もはばからず、泣いた。涙が止まらなかった。多分、人生であれほど感激したことはない、と今も思っている。

だから、人間、生きていようと言いたい。無駄に死んじゃダメだよ。生きていると、いいことがいっぱいあるよ。最近、ネットで知り合った者同士が自殺する事件も起きているが、もう一度、この詩を読み返してほしい。

「君死にたもうことなかれ」を。

(2004/10/31)

菩薩えみるん

「菩薩」えみるんこと秋田英澪子(えみこ)さんが小冊子を出した。「人と人をつなぎ、友人も自分も豊かに幸せになろう!」というタイトルにぴったりなのだが、「おやっ、珍しいなあ」と目を引いたのが筆者紹介の肩書き…。

本業は教育関係のNPOの事務局長なのだが、そこには「ビジネス・縁・プロデューサー」とあった。
お互いのビジネスがうまくいくように、ある人とある人を結びつけコーディネートするのが、その役割なのだが、彼女は「人と人をつなぐというのは、簡単そうで難しい部分もあります。それは表面的な言葉を鵜呑みにするのではなく、人の心が本当に欲しているものは何かを見抜く力が要求されるからです。つまり、実際は心を心をつないでいるのです」と「まえがき」で書いている。

本文では、「ビジネス・縁・プロデューサー」になるための毎日の心がけについて、「45」項目のアドバイスをおくる。たとえば…。

「あなたに逢えてよかったと言われる人になろう!」
「自分の楽しめること、本当に好きなことをやろう!」
「やりたいことがあったら、今すぐ取り掛かろう!」
「コンタクトは自分から取ろう!」
「出逢えたことに感謝しよう!」
「人脈は出し惜しみせず、友達にどんどん分けてあげよう!」
「幸せは伝染する!自分が幸せになり、どんどん回りに幸せを分けて、広げよう!」
「出逢いは、真剣勝負!」

どうです? いい言葉の数々ですね。僕がえみるんと出逢ったのは3か月前のあるセミナーのときだった。その後、友人の出版パーティーや本の宣伝でも、ものすごく精力的に応援してくれている。まだ、これまでに4回しか会っていないが、これほど心の温かい人、心のきれいな人を見たことがないと感激し、「菩薩」と呼ぶようになった。心と心をつなぐ架け橋「ビジネス・縁・プロデューサー」とは、まさに天上の神秘、「虹」のような存在なのかもしれない。(ちょっとヨイショしすぎかな?)

小冊子は第2弾、第3弾と続くようなので、楽しみにしているが、僕は彼女の得がたいキャラクターは別の方面でも発揮できないかなあ、とひそかに期待している。まわりをめちゃくちゃ明るく元気にさせる天真爛漫な人柄、頭の回転の速さ、速射砲のようなしゃべり…。これってまさしく、ラジオ向きだよね。

(2004/10/25)

田園調布夫人

きのう、4歳年上の田園調布夫人から「たまには会いませんか」と誘われた。昼下がり、駅前の待ち合わせ場所へ向かう。上品そうな中年のご夫婦らが散歩している姿が目立った。モスグリーンのセーター姿の彼女は、先に着いていた。久しぶりの再会だったが、すぐ僕だとわかったようだった。彼女は笑顔を浮かべ、僕のもとに駆け寄ってきた…。

…といっても、このあと、かつてはやったドラマ「金妻」のようなロマンチックな展開があるわけじゃない。待ち合わせ場所も、ケンタッキーだし。彼女は、変額保険事件の被害者のひとりだった。

変額保険事件…。

もう知る人も少なくなってしまったが、絶望のふちにまで追い込まれた被害者たちの苦悩は、今も続いているのだ。

バブルが崩壊してまもない1989年から90年にかけて、大手銀行(三井、三菱、富士、一勧、三和など)と大手生保(日生、第一、朝日などの国内生保や外資系生保)の両者が組んで「変額保険」(現在の変額保険とは違う)という詐欺商品を売りまくったのだ。

銀行、生保がターゲットにしたのは、土地持ちの資産家(定年まで働いてやっと自宅のローンを払い終えたような程度が多かったが)のおじいちゃん、おばあちゃんたちだった。

「相続税対策、考えてますか。相続税が高いでしょう。息子さん、娘さんは万一のときは、この土地を売らないと相続税を払えないんですよ」「そこで、とってもいい商品が出ました。変額保険というんです」

銀行側が勧めたこの商品は目茶苦茶なものだった。

まずは、土地を担保に目一杯借金をさせるのだ。田園調布夫人の場合だと、田園調布の自宅を担保に銀行側が2億7000万円を融資する。次に、そのお金をそっくり生保が運用する「変額保険」に投資させる。これを聞かされたおじいちゃん、おばあちゃんは一様に腰を抜かした。

「そ、そんな借金したら、返せないんじゃないの」

だが、銀行マンは平然として、こう答えたのだ。

「まるで心配ありません。銀行の貸し出し金利は7%前後ですが、変額保険は安全、確実に運用し、最低でも9%、現在は16%の運用益を出しています。銀行への返済は運用益でまかなえます。おまけに、借金をしているので税金がぐんと安くなります。なんともお得な商品なんです」

それでも、渋るおじいちゃん、おばあちゃんのもとを、若い行員が日参する。彼らは、子供か孫みたいなもんだ。情も移る。それに銀行員がウソをつくわけがない、と信用していた。

「よく理解できないけど、これは銀行が企画していて確実な話なんですね」

そう念を押すおじいちゃん、おばあちゃんに、銀行員たちは「そうです。天下の大銀行ですから」と太鼓判を押したのだ。

こうして全国で多くの被害者が生まれた。変額保険はほぼ株で運用していた。9%から16%の運用益を出すなんて絵に描いた餅だった。

田園調布夫人の場合、2億7000万円を投じた変額保険がなんと半分の1億4000万円になってしまった。運用益がないから銀行への返済も滞る。もともとの借金に金利分が上乗せされる。

いまでは銀行への負債が10億円に膨らんでいる。自宅を処分しても2億円にしかならないという。財産すべて身ぐるみはがされ、路頭に迷っても、なお8億円の借金に追いまくられるのだ。これでは「死ね!」というに等しいだろう。おじいちゃん、おばあちゃんに、こんなむごい目に合わせているのに銀行も生保も知らん顔だった。おかしくはないか? 正義はどこにあるんだ?


僕がこの問題を追いかけだしたのは1998年の末だった。

それ以前に三井銀行、東海銀行などの金融スキャンダルを追いかけるさい、ネタ元となった永山忠彦弁護士(元東京地裁判事。ロッキード事件で田中角栄被告に1審有罪判決を言い渡した人)から、この変額保険事件のことを聞かされた。変額保険事件はすでにいくつか裁判になっていたので、いまさら記事にしてもニュースバリューがないと、僕は及び腰だった。

しかも、調べると、裁判で被害者たちは負け続けていた。「契約書にハンコを押したほうが悪い」「自己責任」という理屈だった。もしも、戦おうとするなら、相手は「銀行」「生保」という巨大企業ばかりではない。「司法」までも敵に回さないといけないのだ。一介のヒラ記者がとても太刀打ちできる相手じゃない。

おまけに、「お前のスクープじゃ、新聞は売れないんだよな」と、過去に上司から嫌味を言われていたことも思い出し、やる気になれなかった。

それでも、永山弁護士への義理から被害者のもとに話を聞きに言った。たしか、2人目だったと思う。増田さんというおばあちゃんの家にうかがった。おじいちゃんは学校の先生を定年で辞めて数年たっていた。資産家というには程遠い。40年働いて、やっと都内に小さな自宅を建てることができた人たちだった。

一審では負けていた。まもなく家は競売にかけられ、無一文になる。借金を返すアテはない。いや、ひとつだけあった。生命保険という性格上、加入者が死ぬと保険金が下りる。被害者の中には自殺する人もいたのだ。

気丈なおばあちゃんは、3、4時間にわたった取材の間、ほとんど涙を見せることはなかったが、心では慟哭していた。

「これは殺人です。凶器は金融のプロです」

そして、僕のほうを見つめて、こう言った。

「日本に正義はあるんでしょうか」

僕は、おばあちゃんのこの一言に突き動かされた。それから週末(土日)を利用をして被害者のもとを訪ね歩いた、記事にできるアテはなかったけれど。どうせ上司に言っても「売れない記事を載せるスペースはない」と断られるのがオチだったから。

だが、翌年春、連載コーナーに偶然、穴があきそうになった。

僕は上司に「取材していたネタがあるので、これならすぐ書けますよ」と持ちかけた。すると、「ああ、なんでもいいから埋めてくれ」とOKが出た。

僕はここで2週間にわたり、「変額保険10年目の悲劇」と題する連載を書き、銀行、生保を実名で告発した。上司のもとには「当の銀行」からクレームが来たようだが、走り出した僕を、もはや止められなかった。

だが、僕が戦ったのは、ここまでだった。このあとも、もっともっと戦うべきだったのだ、といまさら反省しても遅いよなあ。

被害者たちは100%悪くない。つぐなうべきは銀行であり、生保なのだが、被害者たちはもともと高齢だ。裁判途中で亡くなってしまう人も少なくなかった。また、裁判が長引くことに耐えかね、自分に不利な内容でも、しぶしぶ和解する人たちが相次いだ。

増田さんのおばあちゃんのところは「富士銀行が裁判で負ける可能性があるリストを作っていたなかで、一番上にあった」にもかかわらず、和解に追い込まれてしまったと、あとで関係者に聞いた。なぜ、もっとそばにいて、励まし続けなかったのか、と自分が情けない。僕は逃げたのだ。「自分にできることはした」と。

田園調布夫人も、取材で出会ったひとりだった。彼女のところは今年6月に一審判決が出た。「変額保険」は銀行、生保がもちかけた「欠陥商品」であり、債務は存在しないという完全勝訴だった。完全勝訴はおそらく初めてだったという。だが銀行、生保側が高裁に上告したので、油断はできない。被害者たちの「死」と隣り合わせの戦いはまだ続くのだ。

僕は今年5月、5度目の辞表を出し、新聞記者を辞めるつもりだったので、これまで集めた資料はすべて廃棄していた。慰留され、当分は社内にいることになったけれど。

「辞めないで!」田園調布夫人が真剣な目で僕をみつめる。こんな出来の悪い僕でも頼りにしてくれる人がいるんだと思うと、胸が熱くなった。

(2004/10/24)

人形師・辻村ジュサブロー

久しぶりに懐かしい名前をニュースで見かけた。人形師・辻村ジュサブロー(本名・辻村寿三郎)。「駆け出し記者ポッポ」時代の14年前に1度、お目にかかっただけだが、僕にとっては忘れられない人。僕が過去に書いたインタビュー記事(数百人にのぼる)の中で、多分、これが「ベスト1」だろうと、ひそかに自負していたのだ。

今週はじめに流れたニュースは次の内容だった。

『人形作家の辻村寿三郎さん(70)が、「ジュサブロー」の商標で着物を販売する呉服製造販売「小田章」(京都市)を相手に、損害賠償や商標権の移転などを求めた訴訟は18日、同社が商標権を放棄することなどで東京地裁(飯村敏明裁判長)で和解が成立した。辻村さん側によると、辻村さんは1978年、「ジュサブロー」ブランドの着物の製造を許可する契約を小田章と結び、同社が商標登録。契約は93年3月で終了したが、同社はその後も販売を継続していた』(日経新聞)


NHKで人形劇「新八犬伝」が放映されたのは昭和48年。
僕は12歳、中学1年だった。

登場人物の犬士が持つ不思議な八つの珠、「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「悌」を、呪文のように、そらで言うのがはやったものだった。

子供向けだっていうのに、怖くて、ドロドロとしたストーリー展開。そしてなにより、登場してくる人形たちの、妖しいまでの美しさ。「人形は愛らしいもの」という通念を打ち破った。子供ばかりか大人たちまでもが「ジュサブローの世界」に引き込まれた。

ジュサブローさんに会ったのは平成2年の夏だった。「新八犬伝」から、17年の歳月が流れていた。

ジュサブローさんは丸刈りで、胸板が厚い、筋骨隆々とした体つき。ところが、しゃべると女言葉で優しい。今でいうなら、おすぎとピーコとか、カバちゃんみたいな話し振りだった。(ただし、結婚して子供も2人いた)。

インタビューを始めると、「人形師なんてつらいねぇ…」と何度も繰り返すので面食らった。

「生まれ変わったら? 僕の意志では(人形師は)やりたくないけど、上のほうからやれと言われているような気がしてしょうがない。ちょっとだらしなくしていると、つくっている人形から『このごろ、だらしないんじゃないの』と言われているようで耐えられなくなるんだよねえ」

そしてまた、「つらいねぇ」とつぶやくのだ。

僕が「そんなにつらいんなら、いっそ…」と言いかけたら、ジュサブローさんは途中でさえぎるように「だってそれしか興味がないんだもの。それに、つらいのと同時にものすごく、たまらないエクスタシーがある。こんなにつらいからやめりゃいいのにさあ、やっぱりえもいわれないさあ、違う次元に飛べるエクスタシーがあるんだよね」と、うっとりとした表情になった。

ジュサブローさんは生後、料亭を営む養父母に引き取られたが、5つで父と、22歳で母と死別する。実の父が誰なのか、いまだに知らない。

「男の子にとってはオヤジが誰なのかわからないのは耐えられない。どんな変なオヤジでもいるといないのとでは全然違う」という述懐が、悲鳴のように聞こえた。

自分の性格については「わがままで、社会的には全然通用しない」と自嘲気味に分析していたが、僕は「他人を傷つけるより、自分が傷つくことを選ぶような繊細な人なのだろう」と書いた。

「幸せな人には何の美も感じない。苦しんでいるとき、悲しんでいるとき、もだえているときに、美が生まれる気がする」と言っていた。なるほど、この独自の美学こそ、人形たちのあの妖しい美しさの秘密だったのかと思った。

最後に、ジュサブローさんに「夢は?」と質問した。答えはこうだった。

「夢? ないね。だって、はかないんだもん。生きてるだけでいいじゃないの」

なぜか、この言葉がずっと忘れられない…。


たしか2、3年前だったろうか、福留功男さんが司会の番組「いつみても波瀾万丈」(ゲストの波乱万丈な人生を再現ビデオとトークで振り返る)にジュサブローさんが出演しているのを、偶然見た。

この番組でも、最後に福留さんがジュサブローさんに「夢は?」と聞いた。

僕は「そうそう、ここだよ。ここがジュサブローさんらしいんだよ」と思って、答えを待っていると、ジュサブローさんは「新作人形展を成功させるのがひとつでしょう。それから…」とたしか3つくらい(ありきたりの)夢をあげていた。

僕は「えっ? 夢はないんじゃなかったの。おい、ジュサブロー、それはないだろう」とひとり、ブラウン管に向かって、ツッこんでいた。

だが、今はちょっと違う感想を持っている。僕とのインタビューでは「つらい…」を連発していたが、きっとささやかな幸せと平穏を見つけたんじゃないだろうか。

「よかったですね、ジュサブローさん。長生きしてみるもんですね」。もしも再会する機会があれば、こう話しかけてみたい。

(2004/10/21)

同級生ナオコ

テレビのコメンテーターとして出演したり、新聞、雑誌のインタビューに登場したりしている君のこと、しょっちょう見かけていたけど、全然、気がつかなかった。君が同級生の「ナオコ」さんだってことを。

昨夜、高校時代の同級生の「マンゾウ」(サントリー)、「ポヤ」(日本生命)の3人で一杯やった。

「マンゾウ」が東京転勤になったので、久しぶりに会おうということになった。3人で会うのは6年ぶりだった。

「ヒゲをはやしたのか。怪しげな社長風になったな」

マンゾウは会うなり、失礼なヤツだ。高校時代、ポヤは卓球部、僕は放送局。マンゾウは両方をかけもちしていたが、「ほら吹きマンゾウ」と言われていた。なにしろしゃべること、ウソばっかり。僕もだまされてばかりいたが、なぜか憎めないキャラだった。

1年生のとき、放送局の2年先輩に恋をした。彼女は、男子生徒あこがれのマドンナだった。マンゾウがけしかけた。「今付き合っている人はいないらしい。お前のこと、結構気に入っているぞ。ここは攻撃あるのみ」その言葉を真に受け、学園祭の日、攻撃した。ところが、マドンナの返事は「ごめんなさい。今付き合っている人がいるの。君のことは可愛い後輩よ」。ガーン!ウソばっかりじゃねえか、マンゾウの野郎!!

そんな昔話に花を咲かせていると、「俺たちの同期で一番有名になったのは****だよなあ」とマンゾウが言い出した。

「えっ、同級生だって? 知らなかったなあ。よくテレビにも出てるじゃないか。メガネが特徴的だよな」「シゲが一番知っているはずだぞ。彼女、本名はナカツカ・ナオコだよ」
「ナカツカ・ナオコ?」
「増田塾で一緒だったんだろ」
「増田塾…かあ。そういえば、そんなコがいたかなあ」

僕は中学校3年間(あるいは高校時代もだったか? 記憶が不確かだが)、増田塾という学習塾に通っていた。ここには市内の秀才が集まっていた(各学年30人~50人前後)が、スパルタ指導で有名だった。問題の解答をミスしたり、授業態度が悪かったりすると、正座をさせられ、竹刀で太ももをバシッと数回、叩かれるのだ。痛いの、なんのって! 家に帰ってズボンを脱ぐと、太ももが一筋、ふた筋、ミミズ腫れになっていたものだった。僕は最初のころ、目立たない生徒だったので、後ろのほうに隠れるようにして座っていた…。

ここまで思い出しているうちに、「ナオコ」のことも、遠い記憶からぼんやり甦ってきた。彼女は、成績もずば抜けてよかった。塾長のお気に入りでもあったので、いつも一番前の席にいた。手足がひょろっと長い印象が残っているが、彼女が教室に入ってくると、ちょっと華やぐような感じもあった。

でも、かなり変わったやつだった。たしか、いつも野球帽を横にかぶっていたような気がする。

僕とは、中学が違ったので、出会ったのはこの塾の場だけだった。

僕はその後、増田塾の塾頭のような存在になった。先生たち(大学生のアルバイトが多かった)に可愛がられ、先生の都合が悪いときは「シゲ、代わりにお前が授業をしてくれ」と頼まれた。「よーし、みんな、解答ミスすると、ビシバシ、ひっぱたくからな!」そして、容赦なく竹刀でひっぱたいた。(今振り返ると、悪いことしたよな。みんな、ゴメン!)

「ナオコ」は中学を卒業すると、学芸大付属高校へ進学し、東京へ行ってしまった。今日まで、僕の脳裏からは彼女の記憶が消えてしまっていた。

30年前のうすぼんやりとしか思い出せない増田塾のころの彼女と僕のこと。そして、まったく知らない彼女のその後の人生。

会って聞いてみたい。多分、彼女も僕のことを覚えちゃいないだろうが、それでもいい。話をしてみたい。だって僕たち同級生だろ。

「ナカツカ・ナオコ」さん。いや、今はこういう名前ですね。


精神科医「香山リカ」。

(2004/10/2)

人気占い師「大清水高山」

昨夜(29日)は忙しかった。台風でびしょ濡れになりながら、まずは荻窪「寄港地」へ。「あずみ」「がんばれ元気」のマンガ家、小山ゆうさん主催の飲み会が開かれた。小山さんと親しい太田章さん(ロス五輪銀メダリスト、早大教授)が中心になって、アテネ五輪に参加したレスリング選手、コーチを呼んだほか、俳優、女優、歌手らさまざまなメンバーが集まり、にぎやかな会になった。通称「何を言う、小山ゆう会」。僕はここで久しぶりにスポーツライターの長田渚左さんと出会った。長田さんは「スポーツで育てる」(ベースボール・マガジン社)という著書を出したばかりだった。本には、アテネ五輪で注目を集めた浜口平吾・京子親子をはじめ3組の父と娘の人生劇場が綴られている。僕も娘の問題(怠学、援交?など)で悩んでいたので、長田さんに教育相談を持ちかけ、グチを聞いてもらった。長田さん、ありがとうございます。その後、僕はこの会を途中で抜け出し、高円寺のスナックに向かった。大勢でワイワイやるのも楽しいけど、一人、静かにグラスを傾けるのも、たまにはいいね。店で僕の到着を待っていてくれたのが、人気占い師「大清水高山」さんだった…。


高円寺の占いスナック「パワーハウス」に着いたのは10時過ぎだったろうか。

店にはマスターの大清水さんしかいなかった。

「たったいま女性客2人が帰ってしまって…」

残念そうにそう言っていたが、台風で客足が鈍いのもしょうがないところ。僕にとっては、大清水さんとゆっくり話が出来てよかった。

大清水さんと初めて会ったのは9年前、大前研一さんが出馬(落選)した東京都知事選の後だった。僕は大前さんに密着取材していた。大前さんは子供みたいに無邪気な人で、うれしいこと(たとえば、団地を回ったとき、主婦が握手を求めに来てくれた)があると、選挙事務所の床に寝っ転がり、手足をバタバタさせて(まるで断末魔のゴキブリみたいと思っていたが)、喜ぶのだ。

大清水さんは、大前さんの私設ボディーガードを務めていた。当時、オウムがポアの対象に大前さんの名前を上げていて、実際、オウムの連中が選挙事務所に押しかけてきたこともあった。

選挙後、大前さんの選挙参謀だった知人が、大清水さんを紹介してくれた。

大清水さんは、身長は低いが、横幅が身長ぐらいあって、重戦車みたいな体型。高校時代はレスリングで国体に出場、卒業後は警視庁に入り、機動隊に配属された。

鑑識に興味があったそうで、指紋、手相、顔相などを独学で勉強、警察を辞めてからはボディーガードのほか、「占い」で生計を立てていた。

「おもしろい人だなあ」と思ったので、その後数年間、「人間鑑識」という連載を執筆してもらった。

時々、警視庁の実態をコミカルな筆致でバラしたりしたので呼び出しをくらったりしたが、内部にはファンも多かった。

「パワーハウス」を始めたのはたしか2、3年前だったろうか。けっこう、口コミで「占いがよく当たる」と評判を呼び、女優の島田陽子さんが改名を大清水さんに相談したり、ある著名な女性起業家が年下の恋人との仲を占ったもらったりした。

「起業家の恋人はあるテレビ局のプロデューサーでしたが、お金目当てだったので、別れなさいとアドバイスしました。速攻で別れたと報告がありました」

とっても面倒見のいい人でもある。

「企業の冷たい仕打ちに泣いている親子がいるんだけど、話だけでも聞いてほしい」「日本を代表する損保が、こんなミスをしている」「ストーカーに悩んでいる銀座のホステスがいるので、一緒に守ってくれないか」…などなど、僕のところに話を持ってきたこともたびたびあった。

歌手の中村あゆみさんが、先日復帰したが、あゆみさんを陰で支えたのも大清水さんだった。そして、大清水さんとの関係で僕もあゆみさんの相談に乗ってきた。

実はこの日の昼間、大清水さんの店のお客でモデル志望の美女を連れて僕のところにやってきた。「まず、シゲに面接してもらおうと思って」(大清水さん)。履歴書、写真を持参してやってきた彼女と、喫茶店でしばらく話をしてみる。なんだか、スカウトマンにでもなった気分だった。夜、店に向かったのは、この彼女のこともあった。もう少し、知りたいことがあったのだ。そのほか、僕自身の人生相談もあった。「もっと思いやりの気持ちをもちなさい…」など、いろいろいいことを聞かせてもらった。さて、占いの結果は? 
みなさんにはナイショだけど、大清水さん、ありがとうございます。

(2004/9/30)

不遇はフグの味?

かつて「わたしの不遇時代」という連載を担当していた。

現在、各界で活躍する人たちも、逆風、試練にさらされたことがあった。
連載に登場したひとり、「ミスター原子力」と呼ばれた加納時男さんは東京電力副社長から参議院議員に転身した。何度か取材でお会いしたが、いつも元気で明るく、ざっくばらん。そして、特技がオヤジギャグという人なのだ(苦笑)。

不遇時代の取材中もオヤジギャグ連発だった。

「シゲ、不遇はフグの味だよ、アハハハ」

人生の師匠、菅下清広さん(国際金融コンサルタント)からは数年前、「試練が人を伸ばす」「試練こそ人生のこやし」という話を聞いた。阪神のバースが大活躍していたころ、菅下さんは外資系証券で機関投資家の巨額の資金を運用し、「証券界のバース」といわれた。バブル崩壊を未然に察知し、マーケットから資金を引き出し、死屍累々となったマーケットで生き延びてきた人でもある。

彼が本を出したいというので、数年前、お手伝いした。当時、僕は菅下さんを投資のプロだと思っていたが、それは半面にすぎなかった。投資で勝ち続けるためには人生でも勝ち続けないといけないというのが彼の哲学だった。

「ねえ、シゲ、たとえばホームレスになって生活は破綻しているけど、投資だけは勝っているということがあると思うかい?」

数カ月間、菅下さんのオフィスに通って、さまざまな話を聞いているうちに、「この人は人生の達人だな」と尊敬するようになった。なかでも、僕が一番影響を受けたのが「幸せの10か条」である。毎年、手帳に書き写し、時々、読み返している。

①運のいい人と付き合おう
②さわやかな気持ちで1日を過ごそう
③感謝(ありがとう)の気持ちを持とう
④約束を守ろう
⑤欲張らない
⑥目標、志を持とう
⑦人のために働こう
⑧人生の上り、下りを知ろう
⑨ロマンチックに過ごそう
⑩Good Smile いつも心に笑顔を


僕なりに、このうちもっとも大切なのは「ありがとう」と「笑顔」だと思っている。ありがとうと笑顔を忘れないでいると、運のいい人と出会うことができ、ますます運気が上昇、人生を切り開いていけるのだ。
(2004/9/29)

朝の達人

きょうは人気キャスターの生島ヒロシさんと連載の打ち合わせ。最近、いくつかのことでふさぎこみがちだったが、生島さんからたくさん「元気の素」をいただいたので、みなさんにもおすそわけしたい。

生島さんとの出会いは、2つのご縁が重なったからだった。

ひとつは、僕が「人生の師匠」と尊敬している菅下清広さん(国際金融コンサルタント)と生島さんが友人だったこと。

もうひとつは、去年、生島さんのマネージャーにスカウトされた金ちゃんと僕が数年来の友人だったことだ。

幸運なことに、僕は生島さんとめぐり合うようになっていたんですね。赤坂「ざくろ」で3人(生島さん、金ちゃん、僕)で昼ごはんを食べながら連載の内容について詰めたが、このときに聞いた「生島語録」が僕に勇気と元気を与えてくれた。

「まわりがへこんでいるときこそチャンスだ!」

リストラ、倒産、年収「300万円」時代…と不景気な話題が多いが、こういうときこそチャンスだと生島さんは言う。大勢がへこんでいるのなら、やる気を出した者にチャンスがまわってくる。なるほど、みんながやる気を出している中で、頭角を現そうと思うと大変だが、みんながへこんでいる中、一人やる気を出す人間がいたら目立つもんね。

「荷物は全部背負ってやる!」生島さん夫妻は8年にもわたって、母の介護を体験した。いかに辛かったか、生島さん自身は「先の見えないトンネル」と表現していた。そうした経験が、生島さんをさらに強い人に変えた。

「それまではできるだけ荷物を降ろそうと思っていたが、降ろそうなんて思わなくなった。なんでも背負ってやろうと考えるようになった」

僕も、どんなに辛いことがあっても荷物は絶対、降ろさないと決めた。

生島さんはもう5年も、朝5時からのTBSラジオの番組を続けている。弊紙では「朝の達人」というタイトルで10月から連載していただく。とっても、楽しく、タメになる話が満載なので、ご期待くださいね。

生島さんはかつて知人の医科大学の名誉教授から「朝日を浴びると前向きになる」と聞いたそうだ。生島さんのものすごくポジティブな生き方は、「朝日」のおかげもあるのかもしれない。最近、夜更かしぐせがついていた僕だが、あしたは日の出とともに起床し、朝日の中、散歩することにしよう。何か、いいことが起きるかも!?

(2004/9/21)

若さの秘訣

敬老の日にちなみ、総務省が発表した65歳以上の高齢者人口は総人口の19・5%、2484万人にのぼるんだそうだ。どうせ長生きするんなら、ヨボヨボじゃなく、元気でいたいよね。

「女性初の国会議員」で「100歳の(元)政治家」として話題だった加藤シヅエさんにお会いしたときのこと(「素直が一番」でふれている)。

取材前、娘のタキさんから「高齢(このとき、99歳だった)なので取材は30分くらいにして」と言われていた。疲れさせて、もしものことがあったら大変なので、もちろんそのつもりだった。

ところが、シヅエさん、しゃべりだしたら止まらない。

たしか少し前に、中年の男が小さい子供を人質に立てこもる事件が都内で発生、警視庁の特殊部隊の突入で無事、子供を救出し犯人を逮捕する事件があった。

シヅエさんは、気丈に救出を待っていた少年に激励の「ピンクレター」を出したという話もしてくれた。気がつくと、予定の30分を大幅にすぎ、かれこれ3時間近くになっていた。

僕は、「どうしてそんなにお元気なんですか。若さの秘訣は何ですか」と尋ねた。

すると、シヅエさんは「1日に10回感動すること。道端に小さい花が咲いているのを見つけると、わぁーきれいと思ったりするでしょ。それが10回」とおっしゃる。僕は「ええっ、10回も?」とビックリしてすぐに手帳にメモした。

シヅエさんは2001年12月、104歳で天に召された。僕は、シヅエさんの教えをなかなか実践できていない。これじゃ、長生きは無理かなあ。これからは、せめて「1日に1回」くらいは感動しよーっと。

(2004/9/20)

美香さん、ありがとう

きのうは、きょう18日開幕のピカソ展(東京都現代美術館、12月12日まで)の内覧会に、あの叶姉妹の妹、美香さんをエスコートした。ドレスからこぼれおちそうなあの爆乳が、なんと目の前50センチくらいのところで、ユッサユッサ!

今回のピカソ展のテーマは「からだとエロス」。

美香さんは「このテーマにピッタリだ。お前は知り合いなんだって? じゃ、呼ぶんだ」と会社の重役に頼まれ、この1、2カ月、出演交渉、打ち合わせを続けてきた。

夕方、会社のハイヤーで都内の自宅へ。約束の時間を少し過ぎて、足早にやってきた美香さんは「ごめんなさい。衣装を、どっちにしようか迷っちゃったもので」。姉の恭子さんのアドバイスで決めたという、ピンクのドレス姿だった。
車の後ろに、美香さんと女性マネージャー、僕は助手席に乗り込んだ。

後ろを振り向くと、ドレスからはみだした美香さんの胸が、グウァーンとドアップで迫ってくる。あと、50センチ! 顔を埋めてみたい!ああ、イカン、イカン。エスコート役が何考えてんだ。

僕は「目のやり場にこまりますね」と照れ笑いを浮かべて前を向いた。

きのうは3連休前の金曜日。道も渋滞している。会場の案内係から、携帯に何度も電話がかかってくる。美香さん待ちのワイドショー、スポーツ紙、女性誌に「到着は何時?」ってせっつかれてんだろうなあと思った。

案内係のそんな焦燥をよそに、僕はお気楽に美香さんと雑談。

「歌は好きなんですか?」
「はい、モー娘から演歌まで」
「カラオケは?」
「行きますよ」
「でも、店に顔出すと、叶美香だァって大騒ぎになるんじゃないの」
「赤坂にVIPばかりが集まるお店があるんです。そこなら、大丈夫です」
「最後まで歌えたら100万円って番組がありますよね。よく出演してますよね」
「ええ、また出るんです」
「最後まで歌えたこと、ありましたっけ」
「惜しかったんです。山口百恵の『いい日旅立ち』が…。そうそう、シゲさん、わたし10月に、アニメソングを出すんですよ」
「えっ、どんな?」
「ポニーキャニオンさんからで、インターネットの番組で放映されているアニメなんです」
「じゃ、そのときも宣伝しましょう」

などという会話を交わしているうちに、やっと会場に到着した。

かなり時間が押したので、駆け足でざっと展示作品を見ていただき、その後、ワイドショーなどの囲み取材、写真撮影と続いた。

懇親会場では、社長、相談役、常務らグループの首脳が美香さんを待ち構えていた。

僕ら社員の前では絶対見せないような、ニッコニコの笑顔。美香さんを囲んで記念撮影も楽しそうだった。グループの首脳のひとりが、僕のそばにきて「お前も飲んだくれて迷惑ばかりかけず、たまには会社に貢献しろよ」と言うから、「きょうは相当、貢献した?」と胸を張ってみた。

首脳から「ちゃんと、最後までエスコートしろよ」ときつく言われたので、美香さんと女性マネージャーが帰りのハイヤーに乗り込むところまで、きっちりお供した。

きょう各紙に記事が載っていたし、ワイドショーも放映してくれる。僕も、大役を果たせてホッとした。美香さん、本当にありがとうございます。

(2004/9/18)

素直が一番

大相撲が始まっている。日本相撲協会の北ノ湖理事長とは10数年前、新橋の居酒屋で偶然、出会ったことがある。

僕らが少年時代、横綱だった北ノ湖は憎らしいほど強かった。
今でも覚えているが、勝ったときの、あのふてぶてしい態度。僕らは判官びいきで、小兵の先代貴ノ花や黄金の左の輪島らを応援していた。北ノ湖は典型的な敵役だった。
だが、実際に会うと、穏やかで、誠実な人柄だった。北ノ湖親方(当時すでに現役を引退し、親方になっていた)は後援者らに連れられ、新橋の居酒屋に来たが、なぜか後援者たちは全員帰ってしまったようだった。一人、取り残された北ノ湖親方を、僕は「ねえ親方、一緒に飲みましょうよ」とカウンターに誘った。

「ホント、親方は強かったよなあ」。

一緒に日本酒を飲みながら、僕は親方に聞いた。「強くなるのに、一番大切なことは何ですか」すると、親方の答えはこうだった。

「素直が一番!」

才能だとか、根性だとか、という答えが返ってくるもんだと思っていたから、意外だった。「へえー、素直か…」。その後、何度もこのときのやりとりを思い出しては「素直が一番」と自分自身にも言い聞かせてきた。

だが、あるとき…。

評論家の江藤淳さんをインタビューした(平成10年2月)。

産経新聞に連載していた「月に一度」というコラムを本にまとめ、出版した直後だった。コラムは、政治の話題が多く、江藤さんは永田町の激辛ご意見番といった感じだった。

たとえば、ペルーの大使公邸占拠事件のさい、橋本龍太郎首相(当時)が外務省のスタッフにあんぱんを差し入れたエピソードには「余りに『コドモノクニ』的ではないか」と嘆き、小沢一郎・新進党党首(当時)には「帰りなん、いざ」と政界引退を勧めた。

僕とのインタビューでも、「細川も愚、羽田も愚」「菅は出世主義の権化。ああいうヘロヘロした目を見ただけでわかる」と痛快にぶった斬った。

その一方で、小泉純一郎厚相のことを評価していた。「『このキツネめッ』と思っていたが、成長の跡が見られる」。今、振り返ってみて、このときの人物評がいかに的確だったかに驚かされる。

江藤さんは、小さいころ病弱だったそうで、小柄で丸顔。一見、温厚な好々爺といった印象を受けるが、内面は熱く、激しい人。好き嫌いをはっきり言う。

インタビューの中で、僕は加藤シヅエさんのことを話題にした。シヅエさんは、テレビのコメンテーターなどとして活躍している加藤タキさんの母親で、元衆院議員。平成9年には「100歳誕生パーティー」を開いた。

僕はシヅエさんが99歳のときに自宅に一度お邪魔した。シヅエさんは「ピンクレター」(ピンク色の便箋で手紙を書いていた)というものを出していた。マスコミは政治家のことを、けなすことはあっても、ほめることはない。シヅエさんは「いいことをしたときには、一生懸命ほめてあげたい。ほめると、やる気が出てくるでしょう」と話していた。たしか、梶山静六官房長官(当時)がピンクレターをもらったと言って、僕たち番記者の前ではしゃいでいた。いつもは野武士のように毅然とした人が、「こんなにうれしそうにするのは珍しいな。ピンクレターの差出人、加藤シヅエってどんな人なんだろう」と思ったのが、会いにいくきっかけだった。

シヅエさんは「テレビはウソ発見機。じっと見ていると、この人は本物かな、ニセモノかなとわかる。(次期総理候補だったある大物大臣)○×さん、ああ、あの人はニセモノね」などと話していた。

江藤さんに、このときのエピソード(僕はけっこう感動していた)を伝えたら、「あの人は本物もニセモノもわからない人。僕は大嫌い。君はマスコミ人にしては素直すぎる」と叱られてしまった。

「僕は素直すぎるのか…」。

記者として大成しなかったのは、これが理由だったんだろうか。「素直が一番」と心に刻んでいたが、「素直すぎてもいけないのか?」。僕はわけがわからなくなった。

その江藤さんの訃報が届いたのは翌年の夏だった。
8か月前に先立たれた愛妻、慶子さんの後を追うように自殺したのだ。享年66歳。

江藤夫妻は「一卵性双生児」と言われるほど仲がよかった。看病記「妻と私」を出版した直後の自殺だった。江藤さん自らも、脳梗塞を患い、遺書には「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る6月10日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ」としたためられていた。

大評論家への追悼は、その後、各界の著名人たちから寄せられた。改めて、その数々の業績の素晴らしさに驚かされた。たった1度会っただけの僕ごときが、何か言うべきではないのかもしれない。でも、訃報に接して、こんな思いがよぎった。

江藤さん、素直すぎたのは僕じゃなくて、江藤さんあなた自身だったんじゃないですか。江藤さん、僕もできる限り「素直すぎる」ままでいることにします。

(2004/9/14)

もう一度、記者志願

11日夜、特別企画ドラマ「9・11」(フジテレビ)を見た。あのNYテロから3年、いかにも「泣かせ」の企画だろうと予想できたので見るつもりはなかったが、主演の和久井映見にひかれて最後まで見た。何度、涙が頬を伝わったことだろう。そして、僕の心に突き刺さったものが…。

2001年9月11日、あの日朝、富士銀行ニューヨーク支店に勤める杉山陽一さんは、いつものように世界貿易センターにあるオフィスに向かった。
妻、晴美さんと「ちゃんと子供を寝かせろよ」「いつも、ちゃんとしてるわよ」などという他愛のない会話を交わして。

夫妻には幼い息子2人がいたほか、晴美さんは妊娠中だった。幸せな5人家族の生活が、一瞬の「テロ」で暗黒に突き落とされる。なぜ? だれに、この5人のささやかな幸せを奪う権利があったというのか。許さない、絶対に、許さない。ブッシュの「テロとの対決」の演説よりも、晴美さんの無言の深い悲しみが僕たちの胸に訴えてきた。

ドラマは杉山さん一家の実話だ。晴美さんが書いた「天に昇った命、地に舞い降りた命」が原作になっている。それを、大石静さんがシナリオにした。下手な脚本家だと、視聴者を「これでもか、これでもかと泣かせよう」とするのだが、名手・大石さんは、たんたんと事実を描いていく。その静けさが、より深い悲しみを伝えてきた。

父の死が信じられない3歳の長男と深夜、家の前のベンチに座り、「ブーちゃん(陽一さんのこと)はお星さまになったんだよ」と語りかけるシーン、テロ後、数ヶ月してニューヨークを離れる日、長男が画用紙に「ブーちゃん、また来るからね」と書くシーンに、胸が締め付けられた。

晴美さんは「あの尻切れトンボに終わった会話の続きは、いつできるんでしょう。生まれ変わっても、また夫婦になろうね」と天国の陽一さんに語りかける。どうして、こんなに愛し合っていた夫婦が離れ離れにならなくちゃいけないのか。また、涙が止まらなくなった。

テロの日、僕は宿直当番だった。深夜、通信社から流れてくる膨大な量の記事をさばいていた。安否不明者の中に、富士銀行の杉山さんの名前も見ていたはずだった。だが、僕の心は他人事だった。

晴美さんやその他大勢の遺された家族たちが、憔悴しきった中、不安、絶望、一縷の希望と激しく心を点滅させていたというのに…。当時の僕は、がんが再発し、死のふちにいた母の看病で2ヶ月休職し、少し前に復職したところだった。新聞記者だというのに、だれとも会いたくない、だれともしゃべりたくない、と心を閉ざしていた。その後、母の容態が小康状態で落ち着くと、僕も元気と笑顔を取り戻すことができた。


テロ後、晴美さんは男の子を出産した。3人の小さな子供を抱え、生活は苦労の連続だったはずだが、精一杯、ひたむきに生きていく。ドラマで、そうした晴美さんの生きざまを知り、「どんなに辛くとも逃げずに立ち向かう。こんなに素晴らしい人がいるんだ」と感動した。

ここ1、2年、飲み会でみずほ銀行の人と一緒になったことが何度もあった。「システム統合の大失敗」をあげつらったり、「巨艦だけに対応が鈍い」「不良債権処理が遅すぎる」などと非難してみせたりしたが、テロで犠牲になった杉山さんのこと、遺族の消息を話題にしたことは1度もなかった。ああ、なんてことだろう。「お前、それで新聞記者と言えるのか」という声が聞こえてくる気がする。

ドラマを見終わった後も、涙が止まらず、明け方まで眠れなくなった。このブログを書き始めたとき、100回書き終えたら、新聞記者を辞めようと内心で決意していた。記者生活も20年になり、第一線の取材は若手に奪われ、めったに現場に出ることもない。楽しい時期は過ぎた。20年間に、いろんな人に会い、いろんなことを教えてもらった。記者として大成しなかった僕だけど、その間の思い出を書くことが「可愛がってくれた人」や「ジャーナリストのイロハを教えてくれた先輩たち」への恩返しだと考えたのだ。

本格的に投資家の道を歩むつもりだった。でも、このドラマを見終わって、心が揺れだした。晴美さんのような素晴らしい人が、世の中にはきっといる。そんな人たちのことを伝えなくちゃいけないんじゃないだろうか。そう思えてきた。いや、もっと激しく、「伝えたいんだ」と心が高ぶってきた。

僕は、いろんな人たちに出会い、取材の仕方、記事の書き方を教わり、記者としてプロのレベルにまで成長させてもらえた。せっかく身につけた「ペンの力」を捨てるのか?それでいいのか? ともうひとりの僕がささやいてきた。

師匠…。僕はどうしたらいいんでしょうか。
師匠…。ペンを捨てようとしたできの悪い弟子ですが、あの日のあなたの後ろ姿を、今から追いかけてもいいでしょうか。
師匠…。決意しました。
もう一度、「記者志願」。

(2004/9/13)

2008年2月10日日曜日

続・ハレンチな奴ら

(前回のブログの続きです)。シマゲジの「国会ウソ答弁」をもみ消す密命を帯びたNHK会長室副部長が、当時、衆院逓信委員長だった野中対策のために、左手の300万円の札束と別に、右手に持っていたものとは…。「教えたら、またこいつが書いちゃうからな」。NHKと手打ちした野中広務さんが侮辱するように言った、あのセリフが僕を取材に駆り立てた。そして1週間後、ついに突き止めた。それは、「天下の公共放送がここまでハレンチだったか」とあ然とするものだった…。

NHKのワイロ工作の舞台となった逓信委の欧州外遊。
議員は野中さんを含め7人だった。

僕は、野中さん以外の6人を片っ端から直撃したが、「ファーストクラスの野中さんとは席が離れていて、そんなこと(副部長が野中さんに現金を見せる)があったのを知らなかった」「古い(5年前の)話で覚えていない」と、取材は暗礁に乗り上げていた。

一方、僕の記事を読んだNHK内部と思われる人から「NHKの醜い権力闘争」や「国会議員に対する接待工作」などのタレ込みがあり、連日、記事を書き続けた。

たとえば、こんな内容だった。「NHKの予算は、衆参の逓信委員ら郵政族議員たちに握られている。このため、予算審議のころになると、特命を帯びた政治部記者が族議員の根回しに奔走する」「会長室には領収書のいらない工作費がある。番組審査委員の会合が地方で開催されるときは、寿司屋、飲み屋、カラオケ店まで事前に下見し、接待漬けにしていた」「問題の副部長は政治部から引き抜かれた国会対策要員だった」…。

連日の報道に、あるNHKの幹部は「うちには、イテててだ」と漏らしていた。

だが、僕としては、副部長が右手に持っていたものを突き止めないことには、取材を終えるわけにはいかない。

ある人物を夜、自宅マンションの前で待ち伏せした。彼ならきっと知っているはずだと確信していた。でも、ストレートに「教えて」と頼んでも無理だろうからちょっとした芝居を打つことにした。

副部長が右手に持っていたもの、もしかして「これか!」と想像したものがあったのだ。彼は深夜、一杯ひっかけてご機嫌な様子で帰宅してきた。僕は「やっとわかりましたよ。右手に持っていたのは、×××だったんですね。まさかと思いましたけど」と話しかけた。すると、彼は「おっ? よくわかったね」と応じた。僕は内心、「やったー。予想通りだった」と小躍りしたが、彼の前ではそんな素振りは見せなかった。

「×××」とはコンドームだった。

あとは、僕の誘導尋問に彼はペラペラしゃべってくれた。「副部長は、左手で300万円の現金の入ったウエストポーチをポンポン叩き、右手にコンドームを持ち、『先生、いくつご用意しましょうか』とニヤけながら迫ったんだ」

つまり、スケベ代議士先生、うちの会長の問題を「なあなあ」で済ましてくれるんなら、現金はもとより、海外のカワイコちゃんもあっせんしますよという、なんとも呆れた接待工作を仕掛けたのだ。まともな人間なら、野中さんじゃなくとも「帰れ!」と怒るだろう。

「でも、書けないだろ」と彼は言った。
僕も「ええ、さすがにこの話は書けませんね」と答えて、別れた。じつのところ、「書かない」つもりだった。いや、同じマスコミ人としてあまりに恥ずかしすぎて書けない、といったほうが正解だろう。僕としては、真相を突き止めることができたので野中さんに侮辱された記者としての「プライド」を守れた、という心境だった。


翌日、議員会館に野中さんを訪ね、「右手に持っていたもの、ついに突き止めました。コンドームだったんですね」と報告した。一瞬、驚いた表情になった野中さんは、「品性にかかわるものを持っていたが、武士の情けで絶対言わない」とムッとしたように言ったきり、あとは口をつぐんだ。

僕はその足でNHKに向かった。

数年前、別のNHKスキャンダルの取材で顔見知りだった広報部の幹部に、「左手に300万円、右手にコンドーム」を突き止めたことを説明した。

そのうえで、「野中さんは武士の情けと言っている。僕にも武士の情けはある。さすがに、これは恥ずかしすぎる。問題の副部長が一言、申し訳ないと謝罪する談話を出すなら、僕もこの事実は胸の中だけに留めることにする」と伝えた。

この問題が発覚して以来、問題の副部長はマスコミの取材にいっさい、答えていない。NHK側は彼をヒタ隠しにしてきた。僕の推測だが、渦中の副部長が一言でもコメントすると、彼がNHKにいること自体は事実だと明らかになってしまう。NHKでは、副部長の存在自体を認めていない。もともと、そうした副部長がNHKにいないのだから、野中さんが暴露したワイロ工作は「デッチ上げか、何かの誤解だ」ということでシラを切り続けようとしていたのだ。

多分、上層部と相談してきたのだろう、小1時間ほど中座した広報部の幹部が戻ってきた。険しい表情で、こう結論を伝える。「副部長本人への直接取材は絶対させないというのが局の方針だ」僕が「それなら、書いてもいいのか」と詰め寄ると、「どうぞ、ご勝手に。この件について、局からのコメントはありません」という返事だった。

僕は、完全にキレた。「武士の情けもへったくれもあるか!」。

翌日の記事、見出しは「NHKコンドーム接待」だった。野中さんのところは出入り禁止になったが、僕は晴れ晴れとした心境だった。

つい最近も、NHKの金銭スキャンダルが相次いで暴露されている。「みなさまのNHK」という紳士淑女然とした仮面の下の、醜い体質は何も変わっていなかったということだろう。僕はこのとき以来、「受信料」を払うのを拒否している。
(2004/9/5)

ハレンチな奴ら

先日、「日歯のドン」の素顔をここで書いた。永田町を揺るがせている自民党橋本派に対する日歯の1億円ヤミ献金事件では、同派幹部3人の名前(橋本、青木、野中)があがっているが、裏金授受の場に「別の会合に出ていたのでいたはずがない」とシラを切っている男、野中広務元幹事長をめぐっては、忘れられないエピソードがある。

あれは、8年前(1996年6月)だった。

野中さんの著書「私は闘う」のある記述が波紋を広げた。
「NHKのワイロ工作」を暴いていたからだった。詳細はあとで書くが、僕が政治担当の記者になってはじめて夜回りした政治家が野中さんだった。

当時、村山内閣で自治大臣に入閣したばかりで、それほどの大物ではなかったが、言うべきことはきちっと言う野武士を思わせた。一方で、宿舎へ夜、行くとステテコ一丁で出迎えてくれる気さくさと、自分は酒を飲まないのに記者のために冷蔵庫にビールをごっそり入れてある気配りが、うれしかった。

青島都知事を狙った郵便爆弾事件があった夜、国家公安委員長(兼自治大臣)だった野中さんの談話をもらおうと深夜、宿舎に電話した。野中さんは「電話じゃ話はできんが、来たらしゃべる」と言ってくれたので、すぐに向かった。
野中さんはステテコ姿で起き出して、僕の取材に応じてくれた。

その野中さんが本を出した。

自治大臣時代に遭遇した阪神大震災、オウムの地下鉄サリン事件などの「語れば血が流れる」エピソードの数々を打ち明けていた。

ところで、この1カ月前に小沢一郎さんも「小沢一郎 語る」という本を出していたが、両方とも出版元が文藝春秋だった。小沢、野中の2人は宿敵といえる間柄。野中さんは「政治生命とかけて小沢と闘う」と宣言していた。その2人が、同じ出版社から前後して本を出したのはおもしろいと思った。「節操のない出版社?」などと多少、文春をからかいながら記事を書いた。野中本を紹介したのは、マスコミでは多分、僕が一番早かったと思う。

だが…。

それから2週間後。土曜日だった。昼で仕事を切り上げたら、しばらくぶりに好きな芝居でも観に行こうと思っていたが、朝日新聞の朝刊を開いて腰を抜かしてしまった。

社会面のトップ記事で野中本のある部分がデカデカと取り上げられていた。

野中本では、シマゲジこと島桂次会長の「国会ウソ答弁」をもみ消すため、NHKがワイロ工作をしていたと暴露していた。NHKのドンとも言われたシマゲジは、93年、衛星放送の打ち上げに失敗したさい、「衛星を製作したGEのヘッドクオーターにいた」と国会で答弁していたが、実際はロスのホテルにいた。

この事実を隠すためについたウソが次々にバレたうえ、愛人スキャンダルも噴き出し、まもなく辞任に追い込まれた。NHKでは、どうにかしてドンを守ろうと政界工作に奔走した。

そのターゲットのひとりが、当時、逓信委員長だった野中さんだった。欧州の放送、郵政事業の視察に向かう野中さんたち一行に、NHK会長室の副部長が同行した。そして、飛行機が飛び立った2、3時間後、副部長がファーストクラスの野中さんの席を訪ねてきた。床にあぐらをかくと、「うちの会長のことは委員長が腹に収めてくれ」「わたしは300万円を旅行中の委員長対策として持ってきた」と言い、ウエストポーチにしまったあった現金を見せた。野中さんは「ふざけるな。国会でウソを言うたことは国会で訂正しろ。帰れ!」と一喝したという。

朝日の記事は、この部分をクローズアップしたものだった。
朝から政治記者らは大騒ぎになった。

「お前は何を書いていたんだ!」。

上司から怒鳴られるまでもなく、自分のマヌケさはよくわかった。

僕は、地元の京都に戻っている野中さんを捕まえようと新幹線に飛び乗った。どこの社も同じだった。だが、この日、事務所に聞いても、自宅の奥さんに聞いても、野中さんがどこに居るのかつかめなかった。

「もうダメか…」。諦めそうになったが、最後の望みをつないで、薗部町の自宅へ向かった。

たしか夜、9時か10時ぐらいになっていたと記憶する。

自宅の前から電話を入れた。すると、なんと本人がいた。ところが、「もう遅いからダメだ」と断られてしまう。僕は粘った。

「先生、時間は取らせません。じつは今、ご自宅の前にいるんです」
「えっ、自宅? きょう、追いかけてきた記者は、みんな京都駅から連絡するだけだった。自宅まで来たのはお前だけだ。…しょうがないなあ。じゃ、少しだけだぞ」

野中さんは自宅に迎え入れてくれた。控えめで上品な感じの奥さんがメロンを出してくれた。これが、すごくおいしかったのを覚えている。

野中さんは「少し」といいながら、1時間ほどインタビューに応じてくれた。朝日の取材に対し、シマゲジは「100%デタラメ。野中氏程度の人物に対し、抗議する気にもならない」とコメントしていた。野中さんは「わたしがどの程度の人間かわからんが、何回かの選挙で10数万票を得た人間。『その程度の人間に…』と思い上がった考えが今日、島さんを過去の人にし、NHKにとってぬぐい難い問題を起した。島さんなりNHKなりがそうなら、知っている内容すべてを明らかにする勇気を失ったわけじゃない。血を浴びることも覚悟している」と天下のNHKに対し、改めて宣戦布告した。

このインタビューは翌週の月曜日に掲載され、永田町で大反響を呼んだ。僕もマヌケ記者の汚名を返上することができた。

この日の夜、野中さんに取材の礼を言おうと、宿舎を訪ねた。すると、意外な人物が来ていた。NHKの首相官邸担当のサブキャップだった。サブキャップは僕の顔を見ると、急に小声になって「じゃ、先生、そういうことで…」。野中さんは笑顔で「うん、わかった。わかった」と応じていた。

こいつら、手打ちしたんだな、と直感した。

つい2日前、「血を浴びることも覚悟」と宣言していた野中さんは、どこへ行ったんだろう。

さらに、野中さんは僕を無視しながら、NHKのサブキャップにこう言った。「副部長が持っていたのは300万円だけじゃないんだよなあ」と、左手で腹(ウエストポーチのあった)をポンポン叩きながら「ここに300万円だろ。で、こっち(右手)には別のものを持っていたんだ」と続けた。そして僕のほうを向くと、「でも、それを教えると、またこいつが書いちゃうからな。言わない、言わない」と口にチャックする仕草をし、NHKサブキャップと顔を合わせてニヤリとした。

僕は、怒りがこみ上げてきた。「私は闘う」と大ミエを切ったくせに、すぐに手打ちした卑怯なヤツを、許さない。「右手に持っていたのも何なのか。絶対、暴いてやる! 今に見てろ!」
(2004/9/5)

日歯のドン

可哀想だなあと思う。あの年(73歳)で拘置所暮らしは辛いだろうし。自民党へのヤミ献金事件で逮捕、起訴されている日本歯科医師会前会長の臼田貞夫さん。新聞、テレビのニュースでは「容疑者」「被告」と呼ばれ、悪党に成り下がってしまった。だが7年前、初めて会ったとき、臼田さんは「正義の人」だった…。

1997年3月。たしか朝日新聞だったと記憶しているが、朝刊を開くと、日本歯科医師会の会長選挙で、実弾(買収のための現金)が飛び交っているという疑惑が表ざたになった。

疑惑の主は、中原爽会長(当時)。

報道によると、同陣営は会長再選(3期目)を目指し、投票権を持っている代議員に商品券を渡し、接待漬けにしていた。つまり、金で1票を買うという、汚い買収工作を展開していたのだ。これに対し、対立候補らが「金権選挙だ!」と非難していた。

僕は、この記事をきっかけに早速、後追い取材を始めた。反中原の中心人物が臼田さんだった。

この日の夜、臼田さんを都内のホテルで捕まえた。
臼田さんは「中原会長がいかに金まみれになっているか。そして、金で票を売り飛ばす歯科医師の仲間が情けない」と憤懣やるかたない表情で話していた。

日歯は、自民党の有力支持母体でもあり、中原会長は参議院議員にも当選していた。参院といえば、良識の府である。金にあかせて、会長のイス、議員のイスにしがみつこうとしている中原さんを、僕も許せないと思った。

数回、告発記事を書いた。会長選当日まで中原さんは議員会館にも立ち寄らず、自宅にも帰らず、雲隠れしたままだった。だが、選挙では勝った。僕たち報道陣にもみくちゃにされながらも、中原さんはついに一言もしゃべらなかった。(ケッ! 後ろめたいヤツめ)、逃げていく中原さんの後姿に毒づいたが、僕(ペン)の負けだった。

その後も、臼田さんには時々呼び出された。臼田さんは、杉並区善福寺で小さな歯科医院を経営していた。そこの2階の自室で会うことが多かった。臼田さんはいつも「歯科医師会の金権体質をなんとかしたい」と訴えていた。彼の情報をもとに、日歯幹部の金銭スキャンダルを告発する記事を書いたこともあった。

また、日歯の政治献金団体、日歯連(会員から多額のお金を吸い上げている)は事実上、伏魔殿になっているともよく聞かされた。自民党へ多額の献金がわたっているが、献金にはキックバックがあるなどその行方には不透明な部分が多いとも繰り返していた。

「こうした闇の部分を改革したい」

臼田さんがそう話していたのを、今も覚えている。僕は当時、自民党へのヤミ献金問題を追及しようと少し動いてみた。だが、金の動きは「中原会長しか知らない」とされ、彼は当然のことながら取材に応じない。結局、真相にたどりつけないまま、取材を終えてしまった。僕にもっと力と、なにがなんでも暴いてやるという使命感があれば…。だれかが日歯連の闇を告発していれば、臼田さんが犯罪者に転落することはなかったかもしれない、と僕は少し後ろめたい気持ちだ。

臼田さんは日大OBで、一度、日大相撲部の名物監督、田中英寿さんと一緒に、新宿のクラブで遊ばせてもらったことがあった。

この夜、まずは田中さんの奥さんが経営する高円寺のちゃんこ料理屋へ。田中さんは糖尿気味で、奥さんに「酒」を止められていたが、この日、お目付け役の奥さんが所用で出かけていて不在だった。

「奥さんから飲ませないでと釘を刺されています」と店員たちが言っても、田中さんはおかまいなし。上機嫌になって、次に新宿のクラブに移動した。ほぼ全員のホステスを呼んでどんちゃん騒ぎした。が、1時間ほどで僕らはおみやげを渡され、お開きになった。田中さんひとりは、数人のホスちゃんを連れて、さらに夜の街へ繰り出すようだった。

こんな豪放磊落(らいらく)なタイプの田中監督と比べると、臼田さんはおとなしく、あんまり目立たないタイプ。どっちかというと小物に見えた。僕らマスコミは臼田さんを「日歯のドン」などと報じたが、素顔は「気のいいおっちゃん」だったと今も思っている。

4年前の2000年の歯科医師会の会長選挙に臼田さんが立候補したさいは、ずいぶん応援した。

当選した翌日には、裏選対のあったホテルグランドパレスに招かれ、「ありがとう、君とはずっと友達だ」と握手された。

ところが、しばらくしてから医師会の会長室にふらっと遊びに行こうと思って電話をしたら、秘書が「そんな知り合いはいないと言ってますが?」と門前払いされた。

「えっ、なんだ、そんな人だったのか」と呆れて、以来、1度も会うことなく、過ぎていた。マヌケな僕は、臼田さんに都合のいいようにうまく利用されただけだったのかもしれない。でも、あれだけ「金権体質をきれいにしたい」と繰り返していたのは、なんだったんだろうと思う。あれだけ非難していたはずなのに、中原さんと同じ汚いことをしていたのだ。

金と権力。ともにあるにこしたことはないだろう。だが、それに合わせて自分の器を成長させていかないと、このふたつの妖しい魔力に我を失ってしまうのではないか。臼田さんの場合も、自分の器を越えた金と権力に溺れた男の悲劇なのかもしれない。

(2004/9/2)

ありがとう、バカあんちゃん

今年6月18日、胃がんのため死去したマンガ家、あだち勉さん(享年56)を偲ぶ会が30日夜、帝国ホテルで営まれた。僕も「最後のお別れ」を言いに出かけた。

勉さんは、「タッチ」「みゆき」などの大ヒット作品のあるマンガ家、あだち充さんの実兄であり、かつては「ギャグマンガ界の新星」と将来を嘱望された売れっ子だった。

だが、師匠の赤塚不二夫さんとうりふたつの大酒飲み、ドンちゃん騒ぎ好きで、あだ名は「バカあんちゃん」。まわりからは「あだち兄弟は典型的な賢弟愚兄」といわれた。でも、素顔はシャイで心優しい人だった。

偲ぶ会には、ちばてつやさん、藤子不二雄Aさんといった大御所や、同じ赤塚門下生の高井研一郎さん、北見けんいちさん、原作者のやまさき十三さん、武論尊さん、「犬夜叉」の高橋留美子さんらマンガ家仲間、落語家の立川談志師匠、小学館の編集者ら約350人が集まり、にぎやかだった。

入院中の赤塚さんに代わり、奥さんの真知子さんが「あだッチャンはマンガ家を辞めて青年実業家を名乗っていたとき、俺の弟は銀行家だけど、先生の弟はただのバカって言ってたね。赤塚はうらやましそうにするだけで、何も言い返せなかった」「あだッチャン、寂しいからって赤塚を呼ばないでね」などと故人に語りかけた。

勉さんには2度会った。最初は2000年初めだった。前年に「マンガはこうして生まれた!」という連載を担当、「北斗の拳」などの名作マンガの舞台裏をエピソードで綴ったところ好評だったので、続編を予定した。小山ゆうさんの「がんばれ元気」、小林まことさんの「1・2の三四郎」と並んで「タッチ」も取り上げることにしたので、関係者をインタビューして回った。

吉祥寺の喫茶店で待ち合わせると、勉さんは派手なアロハシャツにサンダル履き、髪を後ろで束ねたいかにも遊び人といった風采で現れた。一瞬、「いい加減な人かな」と心配したが、こちらの取材に、丁寧に、親切に、そしてざっくばらんに答えてくれた。いくつも楽しいエピソードを教えてもらった。

だが、いざ連載を始めようとしたら、東大出の上司から「俺はマンガを読んだことがない。お前の連載も1度もおもしろいと思ったことがない」とストップをかけられ、連載企画自体、ボツにされてしまった。

「あんなに熱心に取材に応じてもらったのに…」。

でも、ヒラ記者の分際ではどうしようもなかった。不義理を詫びることもないまま、1年、2年…時が過ぎた。僕は心の片隅にずっとやるせない気持ちを抱いていた。いらなくなった資料や取材メモも処分することができなかった。

そんな思いが通じたのか、やがて知人を通じて角川書店が本にしようと言ってくれた。僕は飛び上がって喜んだ。本にするには取材が足りなかったので、再取材をスタートさせた。「ゴルゴ13」のさいとうプロの人たちには、僕の不義理を許してもらえなかったが、ほかの人たちは「しょうがねえなあ」と内心、思いながらも、水に流してくれたようだった。

勉さんに再会したのは2002年夏だった。このときは、「アカツカNO1」という本を手土産にもってきてくれた。赤塚さんの全作品を紹介するこの本の巻末で、赤塚さんや勉さんたちが泥酔しながら抱腹絶倒の鼎談を繰り広げていた。

この年の秋、僕も単行本用の原稿を書き上げ、角川の担当編集者に渡した。ところが、それからさっぱり連絡がこない。いったい、いつになったら発刊するのか。担当は「もうちょっと待って」としか言わない。結局ところ、理由もよくわからないまま、出版企画が白紙になっていたらしい。

次に、別の出版社に持ち込むと、「新聞記者は原稿が下手だから書き直せ」と散々、クレームをつけられた末、「マンガ関係の本は売れないから企画が通りませんでした」と通告された。

「せっかくここまできたのに…」。途方に暮れた。

だが、捨てる神あれば拾う神あり。知人の紹介で出会った、サブカルチャー系に強い東邦出版の保川敏克社長が「おもしろい、すぐ出しましょう。手直し? 必要ありませんよ」と出版を快諾してくれたのだ。

その日から、わずか1か月足らずで完成するスピードぶりだった。「ダメ!と言われてメガヒット」が書店の店頭に並んだのは、昨年の12月24日のこと、僕にとっては最高のクリスマスプレゼントだった。

だが、思えば、勉さんはこのころすでに病魔に蝕まれていたのだ。勉さんが亡くなって2週間後、僕は「バカあんちゃんの豪快人生」と題する、以下の追悼記事を書いた。

《「兄がいなかったら今の自分はない。(地元の)群馬から大海へ出るための水先案内人をしてくれた」。かつて充氏は、こう話していた。
(勉氏は)昭和22年8月、群馬県生まれ。高校2年生のとき、貸本向けのマンガでデビュー。上京後、広告会社などを経て第1回少年ジャンプ新人賞(43年)に入賞した。
その後、各誌から読み切りを依頼され、「増刊号の星」と呼ばれた。
代表作は、ギャグマンガの『タマガワ君』(週刊少年サンデー連載)など。
弟の充氏は19歳のとき、レースマンガ『消えた爆音』(デラックス少年サンデー12月号)でデビュー。「みっちゃん(充氏)は固い職業が合っている」と反対する家族を説き伏せ、強引に東京に連れ出したのが勉氏だった。このとき、同誌の巻頭カラーが勉氏の新連載『あばれ!! 半平太参上』。当時は弟より兄が売れっ子だったのだ。
勉氏は、まもなく赤塚氏に「チーフアシスタントになってくれ」と誘われる。当時は『天才バカボン』『もーれつア太郎』など赤塚マンガの全盛期。勉氏は「バカボン」を担当した。
師匠と一緒で、「飲む、打つ、買う」すべて揃った遊びっぷりは豪快だった。本人も「先生やタモリと一緒のバカ騒ぎが楽しかった」と振り返っていた。ただ、マンガへの熱意はなくし、マージャン荘で「ヤクザもんと打ち歩いた」ことも…。
数年前には立川談志師匠率いる立川流に入門を許され、「立川雀鬼」を襲名。 赤塚氏はエッセーで「存在そのものがギャグみたいな男で憎めない。付いた師匠が悪かったわけではない、と思う。断言はできないけれど…」と記している。
幸子(さちこ)夫人(33)によると、一昨年暮れから、「胃が痛い」と訴え、近くの医院で胃潰瘍(かいよう)と診断されたが、体調は悪化する一方。
昨春、大学病院で診察してもらったところ、がんが見つかった。切除手術はできず、抗がん剤などの治療を続けた。亡くなる直前まで「夏には大好きなゴルフをしたい」と話していた。
「他人に気を遣う人で、入院するときも『充は忙しいんだから、来なくていいと言え』と話してました」(幸子夫人)
赤塚氏とあだち兄弟を担当した元少年サンデーの名物編集者、武居俊樹氏(62)は「赤塚先生が勉に目をつけたのは、とにかく絵がうまかったから。一緒によく遊んで楽しかった。充も覚悟していたと思うが、早過ぎるよ」と惜しんだ。 》

お悔やみと取材のため自宅を訪ねると、幸子夫人は「会うのは初めてでしたっけ? 主人が何度もあなたのことを話題にしていたので初めてという気がしないんですよ」と言っていた。

勉さんは「ダメ!と言われてメガヒット」の完成をとても喜んでいたそうで、亡くなる直前まで、病室で「これを、あいつにも、こいつにも読ませたいんだ。おい、宛名を書いてくれ」と幸子夫人に頼んでいたという。
そして、「シゲと酒を飲みたいなあ」と言っていたという。

僕はこのことを聞いてジーンときた。本では、9作品を取り上げたが、巻頭に取り上げたのが「タッチ」だった。取材を通して僕自身、もっとも思い入れを深めた章になっている。実はタイトルも「タッチ」の章に出てくる、ある編集者のセリフをもとにしているのだ。

献花のあと、遺影に向かい、僕は「ありがとうございます。勉さんに出会わなければ、この本自体を書き上げることができなかったでしょう」と感謝した。

350人の出席者には、帰り際、2つのおみやげが手渡された。
ひとつは、弟の充さんからの記念品。見開きの左に、「お先にィ」と笑顔の勉さんの似顔絵(充さん作)が描いてある図書カード(1000円分)。右には「漫画家としての才能を使い切る事なくでたらめで目茶苦茶なバカ兄貴を演じ切っていただいた事、かけられた迷惑分を差し引いてここに感謝します」とのメッセージが添えられている。

そして、もうひとつが…。「見覚えのある表紙だと思ったらさあ」(元少年サンデー編集者)。そう、「ダメ!と言われてメガヒット」が入っていた。
(2004/8/31)

いのちの素顔

プロ野球に新規参入する決意を示すなど、何かと話題の若き起業家、堀江貴文ライブドア社長がまたまたひと騒動起こしている。
最近出した著書「稼ぐが勝ち」に、「人の心はお金で買える」という記述があり、賛否両論、波紋を呼んでいるのだ。当の本人は、自らのブログの中で「読んで適当に解釈してもらえれば、と思います。でも、お金は嘘をつかない・お金で人は豹変するというのは事実だと思います。まあ、そういうことをキャッチーに書いてみた感じです(ゲゲっ?なんてこと言うんだって思うでしょ?)」と書き、波紋を楽しんでいるふうでもある。
僕は、「お金で買えるのは心のガラクタだけだ。そんなもの買いたくもないし、ほしくもない」と思う。

久しぶりに、本箱から思い出深い1冊の本を取り出してみた。

「いのちの素顔」(有田一寿著、教育新聞社刊)。

僕が新聞記者になったのは20年前の1984年だった。
学生時代、遊び回っていたのでまともな就職先がなく、「教育新聞社」というちっぽけな専門紙にもぐりこんだ。

運がよかったのは、この年から中曽根康弘首相(当時)が明治維新、戦後に続く「第3の教育改革」のキャッチフレーズのもと、首相直属の臨時教育審議会(臨教審)というものを発足させたため、「教育問題」に社会的な視線が集まったことだった。

一般紙も臨教審の動向を逐一、1面で報道した。僕は、朝日、読売などの大新聞のエリート記者に混じって取材に駆け回り、彼らが書く記事を手本にしながら「記者ポッポ」生活をスタートさせた。

この時代に、最初にお会いしたのが、有田一寿さん(2000年死去)だった。

有田さんは、学歴こそ東大卒のエリートだが、幼少のころ両親に死に別れた苦労人だった。学校の先生(校長)を経て実業界に転じ、さらに参議院議員も経験した。
参議院時代は、河野洋平さんらのいる新自由クラブに所属し、若い河野さんらの後見人的存在でもあった。また、高潔な人柄、幅広い教養から「新自由クラブの良心」とも呼ばれた。

臨教審では、初等中等教育(幼稚園から高校まで)の改革を担当する第3部会の部会長を務めていた。このころ僕は取材で屈辱を味わうことが多かった。一般紙の記者の前では機嫌よく対応する人が、僕の取材になると、とたんに「どこの記者だ?」と居丈高になり、ロクにしゃべってくれないことがあった。ある文部事務次官OBには「もっと勉強してから来なさい」と門前払いされた。

だが、有田さんは違った。だれの前でも同じように熱っぽく、僕のような新米記者にも理解しやすいようにかみくだいて説明してくれた。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」。有田さんを見て、そんな言葉を思い出した。そして、自分にもこう戒めた。「威張らず、おごらず、へつらわず」


取材場所は、赤坂の事務所が多かった。インタビューを始めると、当時、68歳か69歳の高齢だったにもかかわらず、有田さんはだいたい3時間くらいはしゃべり続けた。僕はいつも取材が終わると、ぐったり、フラフラになって会社に戻ったものだった。

僕は、今でこそどんな偉い人だろうが、どんな美女だろうが、まるで緊張しなくなったが、新米時代はあがり症だった。有田さんの前でも緊張しまくっていた。秘書が持ってきてくれたコーヒーを口にしようとすると、手が震えてカップがガタガタする始末。だから、いつも一口も飲まないで残していた。

有田さんが記者との対応について、こんなことを話してくれたのを覚えている。

「秘密にしたいことがあるとするだろう。これだけは絶対隠したいという部分以外は、全部しゃべる。隠し事はいっさいないと思わせるのがコツだ。下手なやり方は、なんでもかんでも隠そうとすること。それだと何か隠しているとわかってしまう。すると記者もプロだから必死に暴いてくる」

ふーん、なんでもオープンにしゃべっているように見せて、隠すところは隠してるのかと僕は感心した。

こんな風にして何度、有田さんにお会いしただろうか。

1年以上たったある日、取材を終え、さあ帰ろうとすると、有田さんが「ちょっと待って」といいながら、僕の前にドサッと原稿用紙の束を積み上げた。

「これまでに書き溜めた教育に関するエッセーがこんなになった。十分、本になる量だろう。君のところで出してほしい」

そう、頼まれた。ありがたすぎる話だった。
当時の有田さんは、「教育の自由化」を言い出した天谷直弘第一部会会長(首相側近)らと真っ向からやりあうことが多かったせいもあって、臨教審メンバーの中でもっとも発言が注目される時の人だった。

大手新聞社だろうが大手出版社だろうが、どこでも、有田さんの本なら喜んで出しただろう。よりによって名もない専門紙からなぜ出したのか。

たまたま、本を出そうとしたときにやってきたのが僕だったからか、それとも毎回毎回、3時間も話をじっと聞き続ける僕のことを、孫のようにでも思ってくれたのか、今となってはわからない。

出版パーティーは盛大だった。三笠宮崇仁殿下を来賓にお招きしたのをはじめ、森喜朗ら歴代文相、有力文教族、臨教審委員らが勢ぞろいした。また、有田さんはクラウンレコード会長も兼務していたため、所属の芸能人らも華を添えた。
僕は、着物姿で来ていた五月みどりさんの美しさにポーっとなり、ちゃっかりツーショットで写真をとってもらい、宝物にした。

臨教審以降は、僕も別のメディアに転職したこともあって疎遠になっていた。
有田さんも病気で倒れ、以前のようには活動していなかった。

久しぶりにお会いしたのは96年、たしか「民主党」が誕生したころだった。新自由クラブの失敗を踏まえて、二枚看板の鳩菅にアドバイスを、というのが取材の趣旨だった。

病後で足元がおぼつかなかったが、熱心な話ぶりは健在だった。このときも帰ろうとすると3時間が過ぎていた。
驚いたのは、本題の取材が終わって有田さんがこう言い出したことだった。

「僕には夢があってね…」

その夢とは「日本を、徳を輸出する国にしたい」ということだったが、80歳になってもこれだけとうとうと夢を語れる人がいるのかと感動した。

冒頭、話題にした堀江さんはいま注目の経営者だが、「人の心はお金で買える」だの「100億儲ける仕事術」だの、口にする言葉がちっぽけすぎる、と思う。

有田さんには、人間には2種類いると教わったような気がしている。「本物」と「ニセモノ」の2種類だ。僕は「本物」を目指したい。
(2004/8/29)