2008年2月10日日曜日

ありがとう、バカあんちゃん

今年6月18日、胃がんのため死去したマンガ家、あだち勉さん(享年56)を偲ぶ会が30日夜、帝国ホテルで営まれた。僕も「最後のお別れ」を言いに出かけた。

勉さんは、「タッチ」「みゆき」などの大ヒット作品のあるマンガ家、あだち充さんの実兄であり、かつては「ギャグマンガ界の新星」と将来を嘱望された売れっ子だった。

だが、師匠の赤塚不二夫さんとうりふたつの大酒飲み、ドンちゃん騒ぎ好きで、あだ名は「バカあんちゃん」。まわりからは「あだち兄弟は典型的な賢弟愚兄」といわれた。でも、素顔はシャイで心優しい人だった。

偲ぶ会には、ちばてつやさん、藤子不二雄Aさんといった大御所や、同じ赤塚門下生の高井研一郎さん、北見けんいちさん、原作者のやまさき十三さん、武論尊さん、「犬夜叉」の高橋留美子さんらマンガ家仲間、落語家の立川談志師匠、小学館の編集者ら約350人が集まり、にぎやかだった。

入院中の赤塚さんに代わり、奥さんの真知子さんが「あだッチャンはマンガ家を辞めて青年実業家を名乗っていたとき、俺の弟は銀行家だけど、先生の弟はただのバカって言ってたね。赤塚はうらやましそうにするだけで、何も言い返せなかった」「あだッチャン、寂しいからって赤塚を呼ばないでね」などと故人に語りかけた。

勉さんには2度会った。最初は2000年初めだった。前年に「マンガはこうして生まれた!」という連載を担当、「北斗の拳」などの名作マンガの舞台裏をエピソードで綴ったところ好評だったので、続編を予定した。小山ゆうさんの「がんばれ元気」、小林まことさんの「1・2の三四郎」と並んで「タッチ」も取り上げることにしたので、関係者をインタビューして回った。

吉祥寺の喫茶店で待ち合わせると、勉さんは派手なアロハシャツにサンダル履き、髪を後ろで束ねたいかにも遊び人といった風采で現れた。一瞬、「いい加減な人かな」と心配したが、こちらの取材に、丁寧に、親切に、そしてざっくばらんに答えてくれた。いくつも楽しいエピソードを教えてもらった。

だが、いざ連載を始めようとしたら、東大出の上司から「俺はマンガを読んだことがない。お前の連載も1度もおもしろいと思ったことがない」とストップをかけられ、連載企画自体、ボツにされてしまった。

「あんなに熱心に取材に応じてもらったのに…」。

でも、ヒラ記者の分際ではどうしようもなかった。不義理を詫びることもないまま、1年、2年…時が過ぎた。僕は心の片隅にずっとやるせない気持ちを抱いていた。いらなくなった資料や取材メモも処分することができなかった。

そんな思いが通じたのか、やがて知人を通じて角川書店が本にしようと言ってくれた。僕は飛び上がって喜んだ。本にするには取材が足りなかったので、再取材をスタートさせた。「ゴルゴ13」のさいとうプロの人たちには、僕の不義理を許してもらえなかったが、ほかの人たちは「しょうがねえなあ」と内心、思いながらも、水に流してくれたようだった。

勉さんに再会したのは2002年夏だった。このときは、「アカツカNO1」という本を手土産にもってきてくれた。赤塚さんの全作品を紹介するこの本の巻末で、赤塚さんや勉さんたちが泥酔しながら抱腹絶倒の鼎談を繰り広げていた。

この年の秋、僕も単行本用の原稿を書き上げ、角川の担当編集者に渡した。ところが、それからさっぱり連絡がこない。いったい、いつになったら発刊するのか。担当は「もうちょっと待って」としか言わない。結局ところ、理由もよくわからないまま、出版企画が白紙になっていたらしい。

次に、別の出版社に持ち込むと、「新聞記者は原稿が下手だから書き直せ」と散々、クレームをつけられた末、「マンガ関係の本は売れないから企画が通りませんでした」と通告された。

「せっかくここまできたのに…」。途方に暮れた。

だが、捨てる神あれば拾う神あり。知人の紹介で出会った、サブカルチャー系に強い東邦出版の保川敏克社長が「おもしろい、すぐ出しましょう。手直し? 必要ありませんよ」と出版を快諾してくれたのだ。

その日から、わずか1か月足らずで完成するスピードぶりだった。「ダメ!と言われてメガヒット」が書店の店頭に並んだのは、昨年の12月24日のこと、僕にとっては最高のクリスマスプレゼントだった。

だが、思えば、勉さんはこのころすでに病魔に蝕まれていたのだ。勉さんが亡くなって2週間後、僕は「バカあんちゃんの豪快人生」と題する、以下の追悼記事を書いた。

《「兄がいなかったら今の自分はない。(地元の)群馬から大海へ出るための水先案内人をしてくれた」。かつて充氏は、こう話していた。
(勉氏は)昭和22年8月、群馬県生まれ。高校2年生のとき、貸本向けのマンガでデビュー。上京後、広告会社などを経て第1回少年ジャンプ新人賞(43年)に入賞した。
その後、各誌から読み切りを依頼され、「増刊号の星」と呼ばれた。
代表作は、ギャグマンガの『タマガワ君』(週刊少年サンデー連載)など。
弟の充氏は19歳のとき、レースマンガ『消えた爆音』(デラックス少年サンデー12月号)でデビュー。「みっちゃん(充氏)は固い職業が合っている」と反対する家族を説き伏せ、強引に東京に連れ出したのが勉氏だった。このとき、同誌の巻頭カラーが勉氏の新連載『あばれ!! 半平太参上』。当時は弟より兄が売れっ子だったのだ。
勉氏は、まもなく赤塚氏に「チーフアシスタントになってくれ」と誘われる。当時は『天才バカボン』『もーれつア太郎』など赤塚マンガの全盛期。勉氏は「バカボン」を担当した。
師匠と一緒で、「飲む、打つ、買う」すべて揃った遊びっぷりは豪快だった。本人も「先生やタモリと一緒のバカ騒ぎが楽しかった」と振り返っていた。ただ、マンガへの熱意はなくし、マージャン荘で「ヤクザもんと打ち歩いた」ことも…。
数年前には立川談志師匠率いる立川流に入門を許され、「立川雀鬼」を襲名。 赤塚氏はエッセーで「存在そのものがギャグみたいな男で憎めない。付いた師匠が悪かったわけではない、と思う。断言はできないけれど…」と記している。
幸子(さちこ)夫人(33)によると、一昨年暮れから、「胃が痛い」と訴え、近くの医院で胃潰瘍(かいよう)と診断されたが、体調は悪化する一方。
昨春、大学病院で診察してもらったところ、がんが見つかった。切除手術はできず、抗がん剤などの治療を続けた。亡くなる直前まで「夏には大好きなゴルフをしたい」と話していた。
「他人に気を遣う人で、入院するときも『充は忙しいんだから、来なくていいと言え』と話してました」(幸子夫人)
赤塚氏とあだち兄弟を担当した元少年サンデーの名物編集者、武居俊樹氏(62)は「赤塚先生が勉に目をつけたのは、とにかく絵がうまかったから。一緒によく遊んで楽しかった。充も覚悟していたと思うが、早過ぎるよ」と惜しんだ。 》

お悔やみと取材のため自宅を訪ねると、幸子夫人は「会うのは初めてでしたっけ? 主人が何度もあなたのことを話題にしていたので初めてという気がしないんですよ」と言っていた。

勉さんは「ダメ!と言われてメガヒット」の完成をとても喜んでいたそうで、亡くなる直前まで、病室で「これを、あいつにも、こいつにも読ませたいんだ。おい、宛名を書いてくれ」と幸子夫人に頼んでいたという。
そして、「シゲと酒を飲みたいなあ」と言っていたという。

僕はこのことを聞いてジーンときた。本では、9作品を取り上げたが、巻頭に取り上げたのが「タッチ」だった。取材を通して僕自身、もっとも思い入れを深めた章になっている。実はタイトルも「タッチ」の章に出てくる、ある編集者のセリフをもとにしているのだ。

献花のあと、遺影に向かい、僕は「ありがとうございます。勉さんに出会わなければ、この本自体を書き上げることができなかったでしょう」と感謝した。

350人の出席者には、帰り際、2つのおみやげが手渡された。
ひとつは、弟の充さんからの記念品。見開きの左に、「お先にィ」と笑顔の勉さんの似顔絵(充さん作)が描いてある図書カード(1000円分)。右には「漫画家としての才能を使い切る事なくでたらめで目茶苦茶なバカ兄貴を演じ切っていただいた事、かけられた迷惑分を差し引いてここに感謝します」とのメッセージが添えられている。

そして、もうひとつが…。「見覚えのある表紙だと思ったらさあ」(元少年サンデー編集者)。そう、「ダメ!と言われてメガヒット」が入っていた。
(2004/8/31)

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