2008年2月11日月曜日

再・言わぬが花

昨年9月に書き、すぐに削除したブログをもう一度アップしたい。
当時、削除したとき、「言わぬが花」と言いました。母のことを書いた一文です。タイトルは「壊れたかった」。
あれから半年が過ぎました…。


母のことを書こうと思います。
暗い話になっちゃいますけど。

(昨年9月)11日から3日間、北海道小樽市に帰省し、1カ月半ぶりに入院中の母を見舞った。68歳、あと何年生きられるのかわからないが、確実にそのときに向かっている。そして、このまま生きていて何か楽しいことがあるんだろうかと絶望的な思いがよぎった。

母は3年半前、乳がんが再発し、両方の肺などに転移した。手術はできず、抗がん剤による治療などを受けてきた。薬の副作用で一時、髪の毛がすっかりなくなったりしたが、それでも今年初めごろまでは小康状態を維持していた。
昨年暮れから、左目が見えなくなってきた。どうやら転移したがんが視神経にも影響を与えているらしい。「きつい治療になるが…」と主治医に放射線治療をすすめられ、いちるの望みをつないだ。

だが、結果的にはこれがよくなかった。

肺に転移したがんへの大量の放射線照射によってその後、肺炎を起こしてしまう。「肺が燃えている」と医者も驚く状態になった。肺の3分の2が燃えつきた。残り3分の1では呼吸が苦しくなり、チューブをつないで鼻から吸入する酸素の量が一段と増えた。

肺炎を抑えるのに使ったステロイドがまた悲惨な状況を引き起こした。
「副作用で骨がもろくなる…」。主治医がそう言っていたが、まさかここまでとは。

母はうがいをしようと、わずかに後ろにそっただけで、左腰の骨が折れてしまった。1か月半の安静でやっとベッドから降りて車イスに乗れるようになったと喜んでいたら、背中をふこうと腰をねじったときに、今度は右腰と背中の骨が折れてしまった。

もともと骨粗しょう症気味だったんだろうが、度重なる治療と薬の副作用で骨がボロボロになっているのかもしれない。

コルセットをつけたままの母は、病院のベッドで寝返りすらうてず、ただじっとしていないといけない。「気が狂いそうだ」と何度も何度もつぶやいていた。


若い頃の母は、それはそれは美人だった。「映画女優」に間違われることも多かったという。

小学校の授業参観に母が来ると、僕は恥ずかしさでいっぱいになった。「ファッションショーじゃないんだから、少し地味な格好をしろよ」と僕が頼んでも、母はまったく聞いちゃいなかった。小樽という田舎町で、参観に来るほかの家のおかあさんたちは、モロ、いなかくさい格好の、おばちゃんたちばかり。

母は顔が派手なのでただでさえ目立つのに、ツバ広のしゃれた帽子をかぶってきたりして学校中が色めきたった。

今思えば、母は女盛りだった。だが悲しいかな、その姿をアピールする場が息子の授業参観くらいしかなかったのだろう。

母は美人なのに、性格は地味で堅実だった。小樽のような田舎町を飛び出し、自由奔放に生きたら、もっと違った人生を切り開けただろうに。また、出会った男が僕の父のようなだらしないヤツでなかったら、とも思う。

父は牛乳屋や風呂屋を経営し、お金には困らない生活をさせてくれたが、毎日、浴びるように酒を飲む、のんだくれで、女好きのどうしようもない人間だった。(僕は、この遺伝子を確実に受け継いでいる)。父が愛人の家に隠れているのを、母と2人で連れ戻しに行ったこともある。

僕が高校3年生のときに両親は離婚した。母は、以来ずっと一人暮らしを続けている。

48歳のときに、乳がんを発症した。手遅れ寸前だったため、乳房のほか左ワキのリンパ節まで切除する大手術になった。左手が不自由になった。

その後も病気がちで、髄膜炎、帯状疱疹などで何度も入院をした。でも、まさか16年もたってから、がんが再発するとは想像もしていなかった。

母は「絶対、病気に負けない」と強い意志を持っている。苦しい治療にも必死で耐えてきた。今も耐えている。

東京と小樽に離れているので、なかなか見舞いにも行けない。母は「男の子なんか産むんじゃなかった」「女の子なら、きっとそばに居てくれたのに」と、こぼすことが多い。

おかあさん、ごめんなさい。僕は親不孝ものですね。

母が一人暮らしをしていた家に2泊した。母はもう、この家には戻ってこれないだろう。

人間、生きていればいいことあると思っていた。だが、母はこの先、どんないいことがあるというのか。人間としての尊厳も奪われ、ただ絶望に向かって一歩、一歩、歩んでいくだけではないのか。

僕は、慟哭した。
「神様、お願いです。こんなに辛い思いに耐えているんです。生まれ変わったら、幸せにしてあげてください」

(昨年9月)13日早朝、仕事の都合で東京に戻らなくちゃならなかった。母は、泣いていた。でも、「仕事は大事だから、早く行きなさい」と僕を送り出してくれた。

僕は寝ている母を抱き、「こんなに辛い目にあって頑張っているんだから、おかあさんには、これからどんどんいいことが起きるよ」「きっと治るからね」と励ました。しょせん、気休めの言葉にすぎないけれど。

(2日後の)15日夜、ホテルニューオータニで友人の出張美容師、廣瀬浩志さんの出版記念パーティーが開かれた。「髪日和」という彼の本はとてもいい作品で、感動した僕は幹事のひとりになっていた(「男・江口の涙」をご参照ください)。廣瀬さんの人望に、160人もの人たちが集まる大パーティーになった。

僕は、この日だけは、明るく、陽気に、盛り上げたいと願っていた。

2次会の席から、4カ月断っていたお酒を今宵だけ、との条件で解禁した。

お酒を飲んだらやっと抑えこんでいる心を抑えきれなくなり、暴発しかねないと不安だったが、僕は「壊れてしまいたかった」のだ。
そして、壊れた。

あとで「ほほえましかった」「大爆笑しました」と言ってもらえたので、不快な思いをさせることなく壊れたのだと知り、ホッとした。

つくづく弱い人間だと思う。

廣瀬さん、刀根さん、2次会から駆けつけてくれたえみるん、そして最後まで一緒にいてくれた啓子さんたちの優しさに甘えながら、安心して壊れたのだ。
きっと、迷惑をかけていることでしょう。
ごめんなさい。

僕は、みなさまのような優しい仲間たちに救われています。

一方、母を救うのは、僕しかいない。が、どうしたらいいんだろう。
ああ、神様。


(2005/4/18)

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