2008年2月10日日曜日

師匠の背中

このブログを読んだ2人の方から「プロの仕事」とほめていただいた。若いときと違ってこの年になるとほめられることがめったにないので、素直にうれしかった。でも師匠と比べたら、まだまだどころか…。

2年ほど前、「池袋ウエストゲートパーク」などで知られる売れっ子作家の石田衣良さんに初めて会った。

彼は星占いで「これから2年間に好きなことにチャレンジするといい」などと書いてあるのを読んで、作家になろうと思い立ち、新人賞に応募、入選したばかりか、デビュー作がドラマ化され、瞬く間に人気作家になり、文壇の最高峰、直木賞さえいとも簡単に取ってしまった。

「シゲさん、世の中、そんなに甘くないはずでしょう。ところが、思っていたより甘かった。(作家になるのには)壁があるかなと思っていたら、新聞紙に体当たりするようなものでした」

こんな風にサラッと言ってのける。それも、彼が言うと、ちっとも嫌味に聞こえないのだ。

山登りにたとえるなら、こうだろう。僕たちは、そびえたつ山を仰ぎ見ながら「これに登るのか」と気持ちを集中させ、ふもとから一歩一歩、汗だくになって進む。途中、「こんな辛いなら登らなきゃよかった」と萎える気持ちを奮い起こして、なんとか頂上へ。登り切ったときは「やったー!」とひとつのことを成し遂げた達成感に満たされるのだ。だが、「天才」はそうじゃない。自家用ジェットやヘリコプターでひとっ飛び、「あれ、もう山頂か」てな具合だ。

僕は、子供のころ作文が苦手だった。凡才だった。そんな僕が新聞記者になってから手本にした人がいた。硬骨のジャーナリスト、斉藤茂男さん。元共同通信編集委員。「燃えて尽きたし」「妻たちの思秋期」「生命かがやく日のために」など著書多数。

大学生のころ、斉藤さんのルポルタージュに出会った。非行少年を取り上げた「父よ母よ!」だった。なぜ、子供たちの心はすさんでいくのか。母子家庭同然に育ったわが身には他人事に思えず、行間から伝わる「父よ!」「母よ!」の切ない叫びに胸が締め付けられたのを覚えている。ああ、こんな記事を書いてみたい。

20代の一時期、僕は毎晩、原稿用紙に斉藤さんのルポを書き写した。酒を飲んで泥酔した夜も欠かさず…、翌朝、原稿用紙をみると、ミミズがはったような字が残っていた。

記者になって8年が過ぎた1992年春、斉藤さんをインタビューする機会にめぐまれた。このころの僕は、スクープも何度も取ったし、社内でも「名文家」と言われるようになっていた。師匠に近づくことができたと思っていた。だからこそ、会いに行ったのだ。場所は東京・市ヶ谷の私学会館の喫茶店。会う前は緊張しっぱなしだったが、あこがれの人はざっくばらんで、本音でしゃべってくれた。

「コンプレックスがあるんだよなあ。しょっちゅう、『何やってんだ、オレは』って。きっと自分の中にもうひとりのデスクがいるんだろう」そして「精神的一匹狼たれ」「出世よりもいい記者になるための階段を選んでほしい」などとアドバイスしてくれた。

別れ際、なにげなく師匠に「夢は?」と聞いた。すると、師匠は次の4文字を答えた。

「記者志願」

僕は打ちのめされた。師匠ほどの人でもなお「志願」しなければ記者にはなれないのか。記者とは、それほど遠く、険しい山の上にあるのか、と。そして師匠は今も熱き思いを込めて「志願」し続けているのか、と。街並みの雑踏の中、遠ざかっていく師匠の背中を僕はずっと見送っていた…。

師匠は今から5年前、99年に亡くなった。たった1度だけの出会いだった。僕は師匠の後姿に、いまも追いつけないままだ。

(2004/8/27)

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