2008年2月10日日曜日

ハレンチな奴ら

先日、「日歯のドン」の素顔をここで書いた。永田町を揺るがせている自民党橋本派に対する日歯の1億円ヤミ献金事件では、同派幹部3人の名前(橋本、青木、野中)があがっているが、裏金授受の場に「別の会合に出ていたのでいたはずがない」とシラを切っている男、野中広務元幹事長をめぐっては、忘れられないエピソードがある。

あれは、8年前(1996年6月)だった。

野中さんの著書「私は闘う」のある記述が波紋を広げた。
「NHKのワイロ工作」を暴いていたからだった。詳細はあとで書くが、僕が政治担当の記者になってはじめて夜回りした政治家が野中さんだった。

当時、村山内閣で自治大臣に入閣したばかりで、それほどの大物ではなかったが、言うべきことはきちっと言う野武士を思わせた。一方で、宿舎へ夜、行くとステテコ一丁で出迎えてくれる気さくさと、自分は酒を飲まないのに記者のために冷蔵庫にビールをごっそり入れてある気配りが、うれしかった。

青島都知事を狙った郵便爆弾事件があった夜、国家公安委員長(兼自治大臣)だった野中さんの談話をもらおうと深夜、宿舎に電話した。野中さんは「電話じゃ話はできんが、来たらしゃべる」と言ってくれたので、すぐに向かった。
野中さんはステテコ姿で起き出して、僕の取材に応じてくれた。

その野中さんが本を出した。

自治大臣時代に遭遇した阪神大震災、オウムの地下鉄サリン事件などの「語れば血が流れる」エピソードの数々を打ち明けていた。

ところで、この1カ月前に小沢一郎さんも「小沢一郎 語る」という本を出していたが、両方とも出版元が文藝春秋だった。小沢、野中の2人は宿敵といえる間柄。野中さんは「政治生命とかけて小沢と闘う」と宣言していた。その2人が、同じ出版社から前後して本を出したのはおもしろいと思った。「節操のない出版社?」などと多少、文春をからかいながら記事を書いた。野中本を紹介したのは、マスコミでは多分、僕が一番早かったと思う。

だが…。

それから2週間後。土曜日だった。昼で仕事を切り上げたら、しばらくぶりに好きな芝居でも観に行こうと思っていたが、朝日新聞の朝刊を開いて腰を抜かしてしまった。

社会面のトップ記事で野中本のある部分がデカデカと取り上げられていた。

野中本では、シマゲジこと島桂次会長の「国会ウソ答弁」をもみ消すため、NHKがワイロ工作をしていたと暴露していた。NHKのドンとも言われたシマゲジは、93年、衛星放送の打ち上げに失敗したさい、「衛星を製作したGEのヘッドクオーターにいた」と国会で答弁していたが、実際はロスのホテルにいた。

この事実を隠すためについたウソが次々にバレたうえ、愛人スキャンダルも噴き出し、まもなく辞任に追い込まれた。NHKでは、どうにかしてドンを守ろうと政界工作に奔走した。

そのターゲットのひとりが、当時、逓信委員長だった野中さんだった。欧州の放送、郵政事業の視察に向かう野中さんたち一行に、NHK会長室の副部長が同行した。そして、飛行機が飛び立った2、3時間後、副部長がファーストクラスの野中さんの席を訪ねてきた。床にあぐらをかくと、「うちの会長のことは委員長が腹に収めてくれ」「わたしは300万円を旅行中の委員長対策として持ってきた」と言い、ウエストポーチにしまったあった現金を見せた。野中さんは「ふざけるな。国会でウソを言うたことは国会で訂正しろ。帰れ!」と一喝したという。

朝日の記事は、この部分をクローズアップしたものだった。
朝から政治記者らは大騒ぎになった。

「お前は何を書いていたんだ!」。

上司から怒鳴られるまでもなく、自分のマヌケさはよくわかった。

僕は、地元の京都に戻っている野中さんを捕まえようと新幹線に飛び乗った。どこの社も同じだった。だが、この日、事務所に聞いても、自宅の奥さんに聞いても、野中さんがどこに居るのかつかめなかった。

「もうダメか…」。諦めそうになったが、最後の望みをつないで、薗部町の自宅へ向かった。

たしか夜、9時か10時ぐらいになっていたと記憶する。

自宅の前から電話を入れた。すると、なんと本人がいた。ところが、「もう遅いからダメだ」と断られてしまう。僕は粘った。

「先生、時間は取らせません。じつは今、ご自宅の前にいるんです」
「えっ、自宅? きょう、追いかけてきた記者は、みんな京都駅から連絡するだけだった。自宅まで来たのはお前だけだ。…しょうがないなあ。じゃ、少しだけだぞ」

野中さんは自宅に迎え入れてくれた。控えめで上品な感じの奥さんがメロンを出してくれた。これが、すごくおいしかったのを覚えている。

野中さんは「少し」といいながら、1時間ほどインタビューに応じてくれた。朝日の取材に対し、シマゲジは「100%デタラメ。野中氏程度の人物に対し、抗議する気にもならない」とコメントしていた。野中さんは「わたしがどの程度の人間かわからんが、何回かの選挙で10数万票を得た人間。『その程度の人間に…』と思い上がった考えが今日、島さんを過去の人にし、NHKにとってぬぐい難い問題を起した。島さんなりNHKなりがそうなら、知っている内容すべてを明らかにする勇気を失ったわけじゃない。血を浴びることも覚悟している」と天下のNHKに対し、改めて宣戦布告した。

このインタビューは翌週の月曜日に掲載され、永田町で大反響を呼んだ。僕もマヌケ記者の汚名を返上することができた。

この日の夜、野中さんに取材の礼を言おうと、宿舎を訪ねた。すると、意外な人物が来ていた。NHKの首相官邸担当のサブキャップだった。サブキャップは僕の顔を見ると、急に小声になって「じゃ、先生、そういうことで…」。野中さんは笑顔で「うん、わかった。わかった」と応じていた。

こいつら、手打ちしたんだな、と直感した。

つい2日前、「血を浴びることも覚悟」と宣言していた野中さんは、どこへ行ったんだろう。

さらに、野中さんは僕を無視しながら、NHKのサブキャップにこう言った。「副部長が持っていたのは300万円だけじゃないんだよなあ」と、左手で腹(ウエストポーチのあった)をポンポン叩きながら「ここに300万円だろ。で、こっち(右手)には別のものを持っていたんだ」と続けた。そして僕のほうを向くと、「でも、それを教えると、またこいつが書いちゃうからな。言わない、言わない」と口にチャックする仕草をし、NHKサブキャップと顔を合わせてニヤリとした。

僕は、怒りがこみ上げてきた。「私は闘う」と大ミエを切ったくせに、すぐに手打ちした卑怯なヤツを、許さない。「右手に持っていたのも何なのか。絶対、暴いてやる! 今に見てろ!」
(2004/9/5)

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