2008年2月11日月曜日

先生、さようなら

ネットを検索していて偶然見つけた、「永山忠彦弁護士、死去」のニュースに「えっ、うそだろ?」と呆然とした。永山さんは、ロッキード事件丸紅ルートの主任裁判官で、田中角栄元首相に対する有罪判決を書いたことで知られる。その後、弁護士に転じたが、いつまでも正義感の強い人だった。ああ、なんてことだ! 僕の「恩人」が、またひとり、いなくなってしまった…。


訃報記事は次のとおり。
《永山 忠彦氏(ながやま・ただひこ=白鴎大法科大学院教授)9月28日、心不全のため死去、66歳。連絡先は同大総務部。告別式は近親者のみで行う。喪主は妻、紀美子さん。ロッキード事件丸紅ルートの一審で陪席裁判官を担当。リクルート事件公判では真藤恒元NTT会長の主任弁護人を務めた》(日経新聞)

永山さんにはじめて会ったのは、10年くらい前だったろうか。このころ、僕はさくら銀行(現・三井住友銀行)の副支店長と公認会計士が共謀して、複数の資産家から数十億円をだまし取った事件を追いかけていた。
僕のもとに、知人を通じて「助けてほしい」とすがるように頼み込んできた元三越の幹部が被害者のひとりだった。

彼は、公認会計士と幼なじみだった。あるとき、「お前のおやじさんは土地持ちだから、相続税が大変だぞ。おれにまかせれば、節税してやるぞ」とアドバイスされ、やがて資産を丸ごと騙し取られる羽目になった。手口は、土地を担保に銀行から巨額の融資を受け、その金をラブホテルの買収や、カラオケボックスの建設につぎ込む、というものだったが、事業はことごとく失敗し、担保の土地、マンションが次々、奪われていった。最後は、「これから脚光を浴びる産業」とそそのかされて産業廃棄物処理会社に10億円単位で投資するが、この会社はほとんど実態のないペーパー会社だった。

のちに、僕はここの社長に会うため、アポなしで事務所に乗り込んだが、いかにも「ヤクザ」といった風袋の男だった。内心、僕もビビったが、ヤー公のほうが「記者」にビビッていたようで、僕の質問にしどろもどろになり、テカをひとり置いて逃げ出してしまった。

永山さんの関係者も、この事件の被害者のひとりだった。

このときは取材で1、2回会っただけだったが、その2年後ぐらいだったろうか、平成9年の春、永山さんから「銀行の犯罪を告発したいので、話を聞いてほしい」と連絡があった。
永山さんは当時、東海銀行秋葉原支店の巨額不正融資事件で共犯とされた金融ブローカーの弁護人を引き受けていた。

この事件は平成3年の発覚当時、「戦後最大の金融スキャンダル」とセンセーショナルに報じられた。事件のあらましはつぎのとおりだった。

《秋葉原支店の支店長代理が起したとされる金融犯罪。知り合いの会社名義でノンバンクから数十億円ずつ借りさせ、それをそっくり同支店に預金させる手口。集めた預金を株、不動産に投資したが、バブル崩壊で運用に失敗、その穴を埋めるためにさらにノンバンクから騙し取る自転車操業を続けた》

僕も直接、取材したわけじゃなかったが、この事件のことは覚えていた。捜査を逃れようと、支店長代理と金融ブローカーがタイに国外逃亡したことで、「バブル紳士たち」の追跡が世間の注目を集めたからだ。
永山さんは、小柄でものすごく柔和な人柄。だが、不正を許さない強い信念をもっていた。銀行犯罪に詳しいわけではなかったが、持ち前の研究熱心さと、真実を見抜く目で、この事件に取り掛かった。そして「警察、検察、銀行がグルになって支店長代理らの個人犯罪の構図をデッチあげた。真相は、銀行ぐるみの犯罪である」との結論に達したという。

僕は、逃げ腰だった。
主犯の支店長代理は詐欺などの罪を認め、懲役11年の刑が確定し、服役中だった。永山さんの主張するとおりなら、警察、検察の捜査当局や、判決を言い渡した司法を相手に真っ向勝負しないといけない。「銀行ひとりを相手にするのだって大変なのに、捜査も判決も間違っていると戦うなんて、できっこないじゃない」というのが、僕の考えだった。

でも、まもなく永山さんの熱意が、僕の「記者魂」に火をつけてくれた。
当時、僕は政治担当で官邸に詰めていたが、その仕事を切り上げ、週2回、午後8時ごろから3時間程度、八丁堀にあった永山さんの事務所で事件のレクチャーを受け続けた。

はじめのころは、銀行内部のさまざまな専門用語が、ちんぷんかんぷん。
「通知預金」「(手形の)一覧払」「便宜扱」などの意味を覚えるところからはじまり、膨大な公判資料を読み込むのもひと苦労だった。

永山さんの事務所でのレクチャーは2、3月は続いたと思う。そのレクチャの合間を縫って、取材にも出かけた。ノンバンクの担当者らを都内のホテルの一室に呼び出し、数時間話を聞いたが、彼らも一様に「支店長代理ひとりの犯罪じゃない。銀行の支店長ら幹部らもすべて知っていた」と証言、永山さんが突き止めた「銀行ぐるみ犯罪」を裏付けた。

取材の過程で、支店長代理らがキリンビール、CSKなどの株券偽造にも手を染めていたことも判明した。僕は、偽造株券の作成を依頼された都内のインテリアデザイナーも突き止め、帝国ホテルで会った。
不思議なことに、警察、検察はこの偽造株券事件をヤミからヤミに葬っていた。なぜ? 「支店長代理に個人犯罪で罪をひとりでかぶれば、偽造株券の件は立件しないし、妻名義にした資産も取り押さえないと取引したんではないか」と推測された。

僕は、平成9年8月18日から7回、告発キャンペーン記事を書いた。第一弾は「東海銀行経営トップ625億円背任疑惑」。最後の2回は、永山さんが登場し、「銀行ぐるみ犯罪隠蔽、許せぬ」と鉄槌を下している。

永山さんとは、偶然にも生まれ故郷が一緒だった。永山さんはカラオケが好きで、よく「美空ひばり」などを唄っていた。

この報道の後も、永山さんから「世の中にはこんな不正があるんです。追求してくれませんか」と何度か呼び出されたことがあった。前にこのブログで話題にした「変額保険事件」を取材するようになるのも、永山さんのおかげだった。かつて永山さんから「シゲは正義感の強い記者だなあ」と褒められたことが、僕の誇りだ。

永山さんはこの2年ほど、医師と法律家が連携するNPOの立ち上げのために奔走していた。医師の医療ミスが報じられることが多く、医療不信が広がっている。医師と(患者側の)弁護士も対立し、溝を深める一方だ。

いま、医療の現場では医療ミスを恐れ、救急患者を自分のところで診ないで大学病院に送ろうとすることなかれ主義がはびこっている。もし、その間に患者が急変したらどうなるのか。せっかく救えた命を落とすことになってしまわないか。さらに、最近、外科医を志望する学生も激減しているという。
これは患者側にとって、困った事態である。対決の図式だけではなく、人の命を救うために今こそ医療と法律がスクラムを組もう、と永山さんは考えたのだ。

このNPOがやっと軌道に乗ろうとしている矢先の急逝。
関係者に聞いたら、仕事に追われまくっていたらしい。

NPOのほか、弁護士活動、さらに法科大学院の教授として学生たちを指導するのに熱心だった。たまに休みが取れると、家族サービスも。

どんなことでも手を抜かない人だったので、疲れがたまっていったのだろう。亡くなった日も仕事をしていたが、事務所のスタッフに「きょうは疲れてしまって…」と言い残し早退したという。

永山さんは、ロッキード事件のことを書き残しておきたい、という希望があった。角栄元首相については「質問にまともに答えない人」という印象が残っていると話していた。書き残していれば、貴重な歴史証言になったはずだ。なぜ、もっと強く勧めなかったのか。僕は、このことが悔やまれてならない。

永山先生、「先生の優しい笑顔と、不正を許さない芯の強さ」を僕は絶対忘れません。

(2004/12/13)

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