2008年2月11日月曜日

田園調布夫人

きのう、4歳年上の田園調布夫人から「たまには会いませんか」と誘われた。昼下がり、駅前の待ち合わせ場所へ向かう。上品そうな中年のご夫婦らが散歩している姿が目立った。モスグリーンのセーター姿の彼女は、先に着いていた。久しぶりの再会だったが、すぐ僕だとわかったようだった。彼女は笑顔を浮かべ、僕のもとに駆け寄ってきた…。

…といっても、このあと、かつてはやったドラマ「金妻」のようなロマンチックな展開があるわけじゃない。待ち合わせ場所も、ケンタッキーだし。彼女は、変額保険事件の被害者のひとりだった。

変額保険事件…。

もう知る人も少なくなってしまったが、絶望のふちにまで追い込まれた被害者たちの苦悩は、今も続いているのだ。

バブルが崩壊してまもない1989年から90年にかけて、大手銀行(三井、三菱、富士、一勧、三和など)と大手生保(日生、第一、朝日などの国内生保や外資系生保)の両者が組んで「変額保険」(現在の変額保険とは違う)という詐欺商品を売りまくったのだ。

銀行、生保がターゲットにしたのは、土地持ちの資産家(定年まで働いてやっと自宅のローンを払い終えたような程度が多かったが)のおじいちゃん、おばあちゃんたちだった。

「相続税対策、考えてますか。相続税が高いでしょう。息子さん、娘さんは万一のときは、この土地を売らないと相続税を払えないんですよ」「そこで、とってもいい商品が出ました。変額保険というんです」

銀行側が勧めたこの商品は目茶苦茶なものだった。

まずは、土地を担保に目一杯借金をさせるのだ。田園調布夫人の場合だと、田園調布の自宅を担保に銀行側が2億7000万円を融資する。次に、そのお金をそっくり生保が運用する「変額保険」に投資させる。これを聞かされたおじいちゃん、おばあちゃんは一様に腰を抜かした。

「そ、そんな借金したら、返せないんじゃないの」

だが、銀行マンは平然として、こう答えたのだ。

「まるで心配ありません。銀行の貸し出し金利は7%前後ですが、変額保険は安全、確実に運用し、最低でも9%、現在は16%の運用益を出しています。銀行への返済は運用益でまかなえます。おまけに、借金をしているので税金がぐんと安くなります。なんともお得な商品なんです」

それでも、渋るおじいちゃん、おばあちゃんのもとを、若い行員が日参する。彼らは、子供か孫みたいなもんだ。情も移る。それに銀行員がウソをつくわけがない、と信用していた。

「よく理解できないけど、これは銀行が企画していて確実な話なんですね」

そう念を押すおじいちゃん、おばあちゃんに、銀行員たちは「そうです。天下の大銀行ですから」と太鼓判を押したのだ。

こうして全国で多くの被害者が生まれた。変額保険はほぼ株で運用していた。9%から16%の運用益を出すなんて絵に描いた餅だった。

田園調布夫人の場合、2億7000万円を投じた変額保険がなんと半分の1億4000万円になってしまった。運用益がないから銀行への返済も滞る。もともとの借金に金利分が上乗せされる。

いまでは銀行への負債が10億円に膨らんでいる。自宅を処分しても2億円にしかならないという。財産すべて身ぐるみはがされ、路頭に迷っても、なお8億円の借金に追いまくられるのだ。これでは「死ね!」というに等しいだろう。おじいちゃん、おばあちゃんに、こんなむごい目に合わせているのに銀行も生保も知らん顔だった。おかしくはないか? 正義はどこにあるんだ?


僕がこの問題を追いかけだしたのは1998年の末だった。

それ以前に三井銀行、東海銀行などの金融スキャンダルを追いかけるさい、ネタ元となった永山忠彦弁護士(元東京地裁判事。ロッキード事件で田中角栄被告に1審有罪判決を言い渡した人)から、この変額保険事件のことを聞かされた。変額保険事件はすでにいくつか裁判になっていたので、いまさら記事にしてもニュースバリューがないと、僕は及び腰だった。

しかも、調べると、裁判で被害者たちは負け続けていた。「契約書にハンコを押したほうが悪い」「自己責任」という理屈だった。もしも、戦おうとするなら、相手は「銀行」「生保」という巨大企業ばかりではない。「司法」までも敵に回さないといけないのだ。一介のヒラ記者がとても太刀打ちできる相手じゃない。

おまけに、「お前のスクープじゃ、新聞は売れないんだよな」と、過去に上司から嫌味を言われていたことも思い出し、やる気になれなかった。

それでも、永山弁護士への義理から被害者のもとに話を聞きに言った。たしか、2人目だったと思う。増田さんというおばあちゃんの家にうかがった。おじいちゃんは学校の先生を定年で辞めて数年たっていた。資産家というには程遠い。40年働いて、やっと都内に小さな自宅を建てることができた人たちだった。

一審では負けていた。まもなく家は競売にかけられ、無一文になる。借金を返すアテはない。いや、ひとつだけあった。生命保険という性格上、加入者が死ぬと保険金が下りる。被害者の中には自殺する人もいたのだ。

気丈なおばあちゃんは、3、4時間にわたった取材の間、ほとんど涙を見せることはなかったが、心では慟哭していた。

「これは殺人です。凶器は金融のプロです」

そして、僕のほうを見つめて、こう言った。

「日本に正義はあるんでしょうか」

僕は、おばあちゃんのこの一言に突き動かされた。それから週末(土日)を利用をして被害者のもとを訪ね歩いた、記事にできるアテはなかったけれど。どうせ上司に言っても「売れない記事を載せるスペースはない」と断られるのがオチだったから。

だが、翌年春、連載コーナーに偶然、穴があきそうになった。

僕は上司に「取材していたネタがあるので、これならすぐ書けますよ」と持ちかけた。すると、「ああ、なんでもいいから埋めてくれ」とOKが出た。

僕はここで2週間にわたり、「変額保険10年目の悲劇」と題する連載を書き、銀行、生保を実名で告発した。上司のもとには「当の銀行」からクレームが来たようだが、走り出した僕を、もはや止められなかった。

だが、僕が戦ったのは、ここまでだった。このあとも、もっともっと戦うべきだったのだ、といまさら反省しても遅いよなあ。

被害者たちは100%悪くない。つぐなうべきは銀行であり、生保なのだが、被害者たちはもともと高齢だ。裁判途中で亡くなってしまう人も少なくなかった。また、裁判が長引くことに耐えかね、自分に不利な内容でも、しぶしぶ和解する人たちが相次いだ。

増田さんのおばあちゃんのところは「富士銀行が裁判で負ける可能性があるリストを作っていたなかで、一番上にあった」にもかかわらず、和解に追い込まれてしまったと、あとで関係者に聞いた。なぜ、もっとそばにいて、励まし続けなかったのか、と自分が情けない。僕は逃げたのだ。「自分にできることはした」と。

田園調布夫人も、取材で出会ったひとりだった。彼女のところは今年6月に一審判決が出た。「変額保険」は銀行、生保がもちかけた「欠陥商品」であり、債務は存在しないという完全勝訴だった。完全勝訴はおそらく初めてだったという。だが銀行、生保側が高裁に上告したので、油断はできない。被害者たちの「死」と隣り合わせの戦いはまだ続くのだ。

僕は今年5月、5度目の辞表を出し、新聞記者を辞めるつもりだったので、これまで集めた資料はすべて廃棄していた。慰留され、当分は社内にいることになったけれど。

「辞めないで!」田園調布夫人が真剣な目で僕をみつめる。こんな出来の悪い僕でも頼りにしてくれる人がいるんだと思うと、胸が熱くなった。

(2004/10/24)

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