2008年2月11日月曜日

橋本龍太郎元首相死去

「橋本龍太郎元首相死去」のニュースを知りました。人の一生とは、まさしく一幕の夢のようなものかもしれない、と妙に感傷的になりました。

ご冥福をお祈りいたします。



橋本元首相が、自民党総裁選に出馬したとき、政治担当に配置換えになりました。
早朝、麻布の自宅前で、僕ら記者団が囲みインタビューをしました。「龍ちゃん」とベテラン記者に呼ばれていた橋本さんは、小柄で、声もすんごく小さい。それだけに、橋本さんを囲むとき、すぐわきのポジションを確保したいところでしたが、傍若無人なテレビカメラが割って入ってきたため、数人の記者の後ろから耳をそばだてて必死にメモをとろうとしていました。
でも、ほとんど聞こえませんでした。

「困ったなあ。これじゃ記事を書けないじゃないか」
ところが、取材が終わると、担当記者たちが「じゃ、メモあわせしましょう」と集まってきました。

メモあわせ。これが、政治記者たちの慣習のようでした。
だれが何をしゃべったのか、一字一句、各社の担当記者が集まって確認するのです。政治家の発言では、誤報は許されないからでしょう。

同時に、記者クラブは「仲良しクラブ」であることの象徴かもしれません。

でも、このときの僕は、「助かった!」とありがたかったですね。

橋本政権のあいだ、僕は首相官邸の記者クラブに常駐していました。会社にはほとんど顔を出さず、官邸と自宅の往復の毎日でした。連日、官房長官や官房副長官の記者懇(だいたいオフレコ)に出席しながら、スクープを探してました。

橋本政権を支える大番頭が、梶山静六官房長官(故人)でした。
田中角栄元首相が、「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と評したエピソードは有名ですね。
僕ら番記者にとって、梶山さんは怖い存在でした。古武士然としてました。

ギンギンに冷えたビールが大好物だった梶山さんは夜、僕ら番記者らと酒を飲みながら、完全オフレコ懇談を時々、催してくれました。
懇談の場所は、官邸の中だったり、赤坂の料亭や、中華レストランだったりしました。最初の懇談のとき、偶然なのですが、僕は梶山さんの隣に座っちゃっいました。みんなは遠慮して遠くの席から座っていたようでした。新参者の僕が、梶山さんの隣に座るのを見たとたん、幹事社だった日本テレビの記者が、あわてて耳打ちをしにやってきました。

「いいですか。梶山さんの前で小沢一郎さんの名前は絶対出さないでください!!」

なるほど、自民党を飛び出し、新進党をつくった小沢さんは橋本政権の政敵だからね。
「ああ、大丈夫、わかりましたよ」

ところが、懇談のさなかで、梶山さんのほうから小沢さんのことを話題にしていたから、配慮する必要はなかったんですけどね。


ちなみに、この完全オフレコ懇とは別に、毎日、午後の記者会見のあと、官房長官室で20~30分ほど番記者との懇談がありました。こちらは、完全オフレコではなく、「官房長官」という名前を出さない決まりがありました。よく「政府首脳」とか「政府筋」などという表現がありますが、あれが、この懇談での発言です。

梶山さんは、橋本首相のことを、こう評してました。

「壊れた自動車」

ブレーキもハンドルも壊れている。でも、エンジンはある、走ることはできる、と。
梶山さんは多分、「ハンドルとブレーキは俺が担当する」と思っていたのでしょう。


橋本さんは、ポマード頭がトレードマークで、キザだったので、嫌う人も少なくありませんでしたが、そばで見ていると、結構正直な人だったという印象があり、僕は嫌いじゃなかったですね。

省庁再編やら、ペルーの大使公邸占拠事件やら、住専問題やら、橋本政権時代のあれこれが、思い出されます。

前回の選挙前、日歯の贈収賄事件にからんで政界引退に追い込まれ、最近はすっかり「過去の人」になってました。


「月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也」(松尾芭蕉)。

(2006/7/1)

長妻昭さん

最近は、国会の爆弾男といったら彼のこと。
民主党の長妻昭さん。
けさ、久しぶりに、議員会館でお目にかかりました。

長妻さんと僕は、ともに昭和35年生まれ。
かつて主宰していた「35の会」(昭和35年生まれが35歳になった年につくった)は、長妻さんとの出会いがきっかけでした。


長妻さんは、僕の顔を見ると、
「懐かしいですね。35から、もう45ですね。あの会は、たしか10年くらい続いたんでしたよね。シンポジウムもやってませんでしたっけ?」

僕も忘れかけていましたが、35の会では、「われらはみ出し宣言」「会社が倒産した日」というテーマで2度、シンポジウムも開催しました。

「そうそう、あのときのシンポでは佐野美和さん(元八王子市議)と会いましたよ」と長妻さん。

35歳のある夜、長妻さん、ジャーナリストの山村明義さんと一緒でしたが、偶然3人とも昭和35年生まれの同い年でした。
「おれたち、35歳か。このくらいの年って大事な時期なんだよなあ」
あの夜、3人とも、真剣に将来のことを語り合いました。

長妻さんは、そのとき、「政治家になる」と宣言していました。僕は、「35の会」の旗揚げを決意しました。

長妻さんが新党さきがけから初出馬したのは1996年のこと。地盤、看板、かばんのない長妻さんが政界入りしたのは、2000年の選挙のとき。当時の森首相の「神の手」失言で、自民党が劣勢になりましたが、長妻さんは粕谷茂さんという元国務大臣の大物を破っての堂々の当選でした。

以来、当選3回。
いまや、民主党を背負って立つ存在に成長しています。

国会での活躍から、全国に長妻ファンが増えているようです。弊社の身近にもファンがひとりいることが判明しました。

将来の首相だ!! がんばれ、長妻議員!!

(2006/6/30)

荒川龍さんにエール!

話題作「レンタルお姉さん」(東洋経済新報社)の著書、荒川龍さんと先日、数年ぶりに再会しました。
著書のヒットのお祝いと、僕の独立の報告(昨年夕刊フジを辞めたことを知らせてなかった!)が目的でした。
荒川さんの著書の書評が、週刊文春や毎日新聞などに掲載されているのを見たとき、うれしかったですね。一時期の「戦友」みたいなもんですから、彼ががんばっていると、自分もがんばろうと思います。

荒川さんのブログ、荒川龍@スチャラカで、僕のことを以下のように紹介してくれました。




Uさんが立ち上げた会社は、1億総億万長者プロジェクト(株)。ちょっとネーミングはどうかと思うが、HPはなかなかカッコイイ!今流行のSNSによる海外株を中心とした情報発信などを手がけていくらしい。ほんわかした人柄と笑顔で、向き合う人を無意識にゆるめてしまえる人だから、その社名もやっぱり「らしい」かもしれない。

会社設立以降、持ち出し続きだというのに、終始にこやかな笑顔を絶やさないUさん。しかも、拙著ヒットのお祝い名目で(ヒットとまでは言えないんですけどね・・・m(_ _;)m、六本木ヒルズで昼食までご馳走になってしまった。も、も、申し訳ございません。まさに「人の振り見て我が振り直せ」で、けっして楽観視できる状況ではないのに、他人を祝える心の余裕を保てるカッコ良さに、心打たれた。なかなか自分は真似できないとは思いますが(^^;)



自分のことというのは、わからないものです。
「ほんわかした人柄と笑顔で、向き合う人を無意識にゆるめてしまえる人」
ハタからはそう見えるんですね。実際は、かなり違いますけど(苦笑)。

荒川さん、激励ありがとうございました。

(2006/6/26)

ハナちゃん、や~い

兜町で会った中で、もっとも強烈で、もっとも楽しく、もっとも気のあった人が、ハナちゃんこと、華小路彩(はなのこうじ・あや)。だれが名づけたか(って本人が言っているんだけど)、別名「カブトチョー娘。」。きょう、メールがきていて、びっくりするやら、うれしいやら。近く、再会したいものです。


なお、昨日ベトナムから帰国しました。


かつてハナちゃんについては、次の記事を書きました。

「伝説の女相場師 夢はデッカク10億円」
との大見出し。(夕刊フジ「おもしろ倶楽部」2002年2月5日掲載)。


だれが呼んだか、「カブトチョー娘。」。10年前、元手600万円を1億円に増やし、2年前、ネット株で1億6000万円を支配(しかも元手200万円!)IT長者。だが、大儲けするたびに天狗になって大損し、すぐにスッテンテンになる。それでも、ちっともめげません。目指すは「10億円」。さあ、波乱万丈!! 天国と地獄を行き来したハナちゃんのお金物語の始まり、始まり…。
華小路彩(はなのこうじ・あや)。京都市出身。年齢は「絶対、ヒミツにしてえ!」と絶叫されたので一応ナイショ。
実は昨年1月の本紙連載「株名人のマル秘テク」に登場してもらった。メチャクチャ、おろしろかったので意気投合し、2人で「10の会」(10年後、10キロやせる、株で10億円儲ける、が趣旨)もつくった。しばらくしてから「シゲ、わたし、自伝を書くわ。シゲがわたしのこと、おもしろいって言うから」。で、生まれたのが昨年暮れに出版された『波乱万丈 お金物語』(TBSブリタニカ)だ。
お金大好き少女だったハナちゃん、小学生で「10万円」、高校生で「100万円」を貯め、上京。赤坂でホステスなどをしながら、23歳で「1000万円」達成。次は「億」と目標を定めた矢先、原宿で占い師の「カネゴン先生」から、「あなたも株をやってみたら」と勧められた。風采の上がらないカネゴン先生だが、株でかなり儲けていたらしい。
そして26歳のとき、人生1度目の「大勝負」に打って出た。ホステスを辞め、証券レディーにトラバーユしたときに知り合った二枚目の「ビビビ」が、店頭に新規公開する機会メーカー「THK」のことを「すごい株だ」と興奮して話すのを聞いたからだ。
この株を公募で買うには1730万円が必要。ハナちゃんの軍資金は600万円しかない。で、どうするか。ナント、街金の高利貸から1200万円を借金して、公募に申し込んだのだ。人気株なので、公募で当たる確率は数%しかないのだが、なぜか「絶対当たる」と思い込むのがハナちゃんのすごいところ。そして実際に当たり、おまけに株価は青天井の上げっぷり。
翌年、ついに夢の1億円を支配したはずだった。だが証券マンにおだてられるまま、バクチ的な仕手株、オプション取引に手を出し、「1億円」が幻となるのにさほど時間はかからなかった。
それでも、今度は「600万円を1億円にした27歳女性の体験」を出版、ベストセラーに!
新聞、雑誌から連載依頼がワンサカやってきて、講演料1回50万円のセンセイになった。が、それもつかの間、低迷相場で株で食えなくなり、「プリンちゃん」「モモちゃん」などの源氏名で年増キャバクラ嬢として生活する日々へ。
いやはやジェットコースターみたいに浮き沈みが激しいが、女神はまたも微笑むのだ。4年前、なけなしの200万円を、暴落していたベンチャーキャピタル「ジャフコ」に投じたところ、1年後には10倍以上の2500万円に。
そして、人生2度目の「大勝負」へ打って出る。99年末、東証マザーズに鳴り物入りで上場した「インターネット総研」の公募(1株1170万円)に応募したところ、2株、当たったのだ。このときも300倍の倍率だったが、「絶対当たると思ってた」。
1か月後、この2株は総額1億6000万円になっていた。ああ、ミラクル! この勢いで突っ走ろうと考えたハナちゃんは、次にカラ売りに手を出した。常識外れの超高値にあった「光通信」をカラ売りしたのだが、ナント、これが大外れ。1日1600万円も損をする日があり、かくして、ハナちゃん、再びスカンピンになってしまったのだ。
でも、「全然へこたれてないの」。こんどの本の売れ行きも上々で、「目標はハリー・ポッター」と豪語するのだ。
「シゲ、明るく元気にしてると、必ず福の神が見初めてくれる。2度あることは3度あるでしょ。あと10年のうちに必ず波がくるから、そのときには一気に10億円よ、オーホホホ」

(2006/5/25)

母との別れ

乳がんの肺転移で長く病床に伏していた母が7日午後9時15分、肺炎のため入院先の北海道小樽市の病院で亡くなった。69歳、あと2週間ほどで70歳の誕生日を迎える直前だった。
母のことは以前のブログ「『ダメ!』と言われてメガヒット」で何回か書いてきた。
「あと半年」(2005年12月1日)
「奇跡」(2005年4月19日)
「再・言わぬが花」(2005年4月18日)
9日お通夜、10日告別式、13日初七日、15日納骨を済ませたものの、残務整理などに追われる毎日。悲しんでいる暇がないようなスケジュールだが、もともと母のがんが再発してから5年、別れの日がいずれ来ることは覚悟していた。
そして、この5年、いつもこう思っていた。
「おかあさん、こんなに苦しい目に耐えているんだから、生まれ変わったら必ず幸せになれるよ」


亡くなる前日の朝、主治医から「危篤です」と連絡があり、急いで病院へ向かった。母はそのとき、目を閉じたままだったが、意識はあった。ただ、もはやしゃべることはできない状態だった。酸素マスクをしていたが、いつ息が止まってもおかしくないほどの、荒い、苦しい呼吸を繰り返していた。あまりの苦しみぶりに、いっそのこと、酸素マスクをはずして早くラクにしてあげたいとさえ思った。
僕の後、子供たち(母からは孫)4人が夜、病室に到着した。
「おばあちゃん、おばあちゃん!!」
子供たちが何度も、何度もこう叫ぶと、それまで閉じていた母のまぶたがはじめて開いた。そして、手足を動かしだした。言葉にはできないが、孫が来たことがわかったのだろうし、起き上がりたいと必死だったのだろうと思う。

主治医はこの日、僕に向かって「あの呼吸の状態をごらんになりましたか。今夜は越せないでしょう。残念ですが…」と宣告していた。だが、母は頑張った。夜を越え、朝を向かえ、そして昼、夕方、2度目の夜…と。最後まで、ずっと頑張り続けた母らしかった。

父と早くに離婚し、母ひとり、子ひとりで暮らしてきた。母の闘病生活のあまりの苦しさ、辛さを間近で見ながら、何度も「最後の親孝行。一緒に死んであげようか」という思いにとらわれたことがあった。
だが、見舞いに母のもとに行くと、母は「絶対、病気になんか負けるものか。頑張る」といつも前向きだった。僕も「そうだよ、絶対よくなるさ。負けちゃだめだよ」と激励した。仮に母が「こんな苦しいのはいやだ。もう死にたい」と漏らすような人だったら、僕は一緒に死んでいたかもしれない。だから母は僕の命の恩人でもある。

昨年の11月、主治医から「肝臓に転移している。あと半年」と宣告されていたから、母と会えるのも、あとわずかとわかっていたものの、まさか1月とは思ってなかった。
最後のお正月になると覚悟していたので、大晦日、元日と母を見舞った。このとき、母は好物の寿司を1人前、ペロッと平らげていた。「まだまだ、ごはんを食べられるから大丈夫」と思っていた。5日に見舞った母の妹によると、「いつもより大声で話していた。正月には、シゲがたいそう、親孝行して帰っていったとうれしそうだった」という。だが、それからわずか半日で急変してしまったのだ。

僕が夜、食事のため病室を離れた瞬間に、最期のときがやってきた。あわてて看護婦さんからの連絡を受け、病室に戻ると、母は虫の息だった。
「おかあさん、おかあさん、死んじゃダメだよ!」
この日が来るのを覚悟していた僕だったが、さすがに涙があふれてきた。母は僕の問いかけにかすかに反応したが、それも5分ぐらいだったろうか。呼吸をする間隔がだんだん長くなり、最後に2度、苦しそうに息をしたあと、ついに口を開かなくなった。
母との別れのときがやってきた。

ここ1年ほど、ずっとつけていた酸素マスクをはずしてもらった母は、それはそれは、安らかな表情だった。
「おかあさんは、よく頑張ったよ。すごいよ、立派だよ」

亡くなった翌日、湯かん(棺に入れる前、白い長じゅばん、着物、羽織に着替えさせ、化粧をする儀式)のため自宅にきた葬儀社の人が、あとで「あんなにきれいな顔のおばあさんは見たことがありませんでした。化粧も紅をすっと引く程度で十分でした」と言っていた。闘病生活中は、処方されたステロイド剤の副作用で、顔も醜くぶくぶくに太ってしまっていたが、息を引き取ってから、すーっと元の顔立ちに戻っていた。
担当してくれた看護婦さんは「いつも明るくて、『さあ、早く治療しようね』って前向きで、頑張り屋さんだった。だからね、尊敬してたんです」と話してくれた。母は寿命には負けたが、病気には決して負けなかった。

母と最後に話をしたのは、亡くなる6日前の1日の午後。東京に戻るため、病室を後にしようとしているときだった。

「会社はうまくいってるのかい。仕事、頑張りなさいね。おかあさんも応援してるから。陰ながらだけどね、オ・ウ・エ・ンしてるからね」

母の最後の言葉を、僕は生涯、忘れない。

(2006/1/17)

ご冥福をお祈りいたします

最近、訃報が相次いでいる。
けさは、仰木彬監督の急逝が報じられていたし、夜には本田美奈子さんの追悼番組もある。
もうひとり、僕のまわりでお亡くなりになった方がいた。
関口哲平さん。がんで闘病生活を送り、12日朝、ご自宅で亡くなったという。享年56歳。




関口さんは1949年生まれ、早大卒。出光興産退社後、アントニオ猪木、野末陳平、大前研一、舛添要一ら各氏の選挙参謀として活躍した。
僕が関口さんと初めてお会いしたのは、10年前、たしか関口さんは都知事選に出馬した大前さんの選対本部長(役職は記憶があいまいだが)だった。第一印象は、とにかく押し出しの強いタイプ、に見えた。
このころ、オウムがポアの対象として大前さんの名前を挙げていたこともあって、大前陣営では私設のボディーガードを採用していた。選挙戦の後、関口さんから「このボディーガードがおもしろいヤツなので一回、会ってくれ」と言ってきた。
ボディーガードは元警視庁の機動隊員だった。高校時代はレスリングで国体にも出場した、ものすごいごっつい体型だった。「これじゃオウムも逃げ出すよなあ」と思ったが、それはさておき、彼は最近は占いを正業としているという。占いの道に入るきっかけは、警視庁時代に鑑識で多くの死体などを見てきて顔相、手相などを研究したからだった。
「へえー、おもしろそうだな」
いちおう、彼の経歴や話にウソがないかどうか、裏を取り、調べた結果、信頼できる人だったので、「人間鑑識」というタイトルで連載をお願いすることになった。
彼の名は、大清水高山さん。
僕は以来、大清水さんにお世話になりっぱなしだ。記事のネタをもらったこともたびたびあるし、自分自身の人生相談(?)に乗ってもらったこともある。つい最近は、ある女性歌手のデビューに力を貸してもらった。
いま、大清水さんは高円寺で「占いの館 パワーハウス」を経営している。たまには顔を出したいと思っている。

この大清水さんとの出会いをつくってくれたのが関口さんなのだ。関口さんは政治の世界を去ると、作家に転身した。
自らの経験をもとにした「選挙参謀」で作家デビューし、「愛犬マックス」「ハート・ビート」などを執筆した。また、テレビの構成作家として「モハメド・アリの真実を追う」「青木功・緒方拳、大地を闊歩」などの番組をプロデュースした。
がんを患っていると聞いたのは、いつのことだったろうか。今年夏、大清水さんに会ったら、「関口さんは不死身だよ。がんを克服したらしいよ」と言っていた。
たしかに一時、体調をかなり取り戻したようだった。
「しあわせになろうよ 余命6カ月を克服した私のがんサバイバル50の方法」なる本も上梓していた。

今年になってから何度かメールをいただいたこともあった。最後の最後まで精力的な人だった。
享年56歳は、早すぎる。
でも、かつてアニメ「巨人の星」では、坂本龍馬の生きざまを取り上げ、「男なら最後まで歩き続け、倒れるときは、前に倒れたい」と伝えていた。これを思い出すような関口さんの最後だった。
人生の幕の閉じ方としては、なかなか見事だったと思う。

(2005/12/16)

歌手デビュー

昨夜、新人歌手のデビューライブに行ってきた。新人といっても、10代のジャリタレではなく、それなりにしっかりとした人生経験を積んだ女性シンガーである。
彼女の名前はcherry(チェリー)。

知り合ったのは今年初め、仕事関係の知人の紹介だった。
彼女には、見失っていた夢があった。
それは歌手になることだった。
20歳ぐらいのころ、雑誌にスカウトされ、モデル活動などを行っていた。ある人気ユニットのメンバーがひとり抜けることになり、その後任として、彼女に白羽の矢が立った。メジャーデビュー寸前だった。
ところが、いくつかの不運が重なり、ユニットが空中分解してしまう。
いつしか彼女は歌の道をあきらめ、アルバイト暮らしを続けるようになった。
出会ったのは、そんな時期だった。

彼女は、こう繰り返していた。
「自分の人生はいつも中途半端だった。このままだと、わたしの人生は何も残らない。中途半端にしてしまったけど、歌うことが好き。うまくいくかどうかではなく、もう一度、全力で歌と向き合ってみたい」

最初は、酒を飲みながら、フンフンと聞き流していたけど、だんだん彼女の真剣さ、必死さに、こちらもキチンと向き合わないといけないと思うようになった。新聞記者として音楽関係者、芸能関係者にパイプがないわけでもない。とくに、「翼の折れたエンジェル」の大ヒット曲で知られる中村あゆみさんとは、別件の取材で親しくなっていたし、その関係者とも長い付き合いだった。

わたし自身はたいしたことをしたわけじゃない。頼りになってくれそうな人を紹介し、2度ほど、関係者と面談するのに同行した程度だった。

彼女は、みちがえるように変わった。「結果がどうなるか、わたしに歌の才能があるかどうかはわからないけれど、やるだけのことはやってみたい」と目を輝かせていた。ボイストレーニングに通い、自作の曲のレコーディングにまでこぎつけた。先日、弊社のオフィスにも遊びにきてくれ、3曲入りのCDをプレゼントしてもらった。

その彼女のデビューが、昨夜だったのだ。
舞台は、都内のライブハウス。
2、30人入ると満杯といった小さなところだが、彼女の夢はここから始まるんだ。最後列に立って聴いていたわたしも、感無量な気持ちになった。
彼女が熱唱したのは5曲。
for you…
サクラshower
Are you allright?
ENDLESS
message from…

わたし自身は、とくにサクラshowerが好きなので、この曲を聴きながら、ジーンときた。

じつはライブの途中、心無い人たちによるハプニングがあった。でも彼女は、それを乗り越え、しっかり最後まで歌いきった。夢に向かって歩き始めた彼女の意志の強さを改めて感じた。

さっき、別の関係者から、このハプニングでショックを受けているらしい、と聞いたが、なにもショックを受けることなんかないさ。
大事なのは、過去よりも今。
今、夢に向かっている、という姿勢が大事なんだと思う。

彼女のステージはすばらしかった。
感動した。
また、聴きたいと思った。

今回は小さなライブハウスだけど、やがて、武道館や東京ドームをいっぱいにする日がくるかもしれない、そんな大スターになってもおかしくないと、彼女の歌声を聞きながら夢想した。

だから、負けるなcherry!
俺たちファンがついている!!

こちらからサクラshowerを聞くことが出来ます。

http://tmmp.co.jp/blog/music/cherry.m4a

(2005/11/24)