2008年2月11日月曜日

続・君死にたもうことなかれ

もう一人、早死にした友人のことを思い出した。

彼の名は中村令貴(のりたか)さん。

東京地裁に書記官として勤めていたが、昨年8月、心臓発作のため帰らぬ人となった。享年45歳。

彼は前年の暮れ、2度目の心臓発作で倒れ、「あと数日しかもたない」と医師から宣告されていたにもかかわらず、奥様の必死の看病もあって8か月も頑張り続けた。だが、奇跡はついに起きなかった。

僕にとって、彼との出会いはかけがえのない思い出である。といっても、美しいエピソードに彩られているわけではなく、記憶に残っているのは、小汚いボロアパートと、貧乏生活と、たばこの灰と、徹夜してまぶしい朝、など。

彼の訃報(ふほう)に接したとき、「ああ、俺たちの青春は過ぎ去ったんだなあ」と改めて思い知らされた。彼の死の直後、「惜別の詩」と題して、次の追悼文をしたためた。


「惜別の詩」

いまから24年前、昭和54年4月…。

中央大学(東京・八王子)に入学した僕と中村が会ったのは、新入生のオリエンテーションだった(もうだいぶ忘れているけれど)。

8号館のだだっ広い教室で、履修講座の取り方などに関する説明を受けていた。

「おい、教室の裏に出ろ! 決着つけてやろうじゃないか!」

いまでは理由も定かではないけど、僕は隣に座っていた同級生の胸倉をつかんでけんかをふっかけていた。その騒ぎ自体は、相手が謝ったので、おおごとにならずに済んだけど、そのとき、近くで目撃していたのが、中村だった。

「ビックリしたぜ。入学早々、裏に出ろ! だろ」
「いやー、本気じゃないさ。生意気なヤツだったから、ちょっと脅かそうと思っただけだよ」

中村は2浪して三重から東京へ、僕は現役で北海道から東京へ。だから、中村が2歳年上だった。まもなくして、2人はやたら親切な先輩たちにいるサークルに言葉巧みに誘いこまれた。かわいい女の子たちもいるし、このサークルは楽しかった。ただ、頭のよさそうな先輩たちが勉強するようにすすめる本が「韓国からの通信」など思想がかっているものばかりだったので、「おかしいよなあ」と疑問に感じるようになった。

田舎学生は「思想」とは無縁だったから、コロッとだまされるところだった。いろいろと調べて、「民生」だとわかったので、3か月ほどして辞めた。

中村と、しょっちゅう会っていたのは、この3か月間だったと思う。

その後、僕はバイト(喫茶店など)と放送研究会(ラジオドラマ制作)にのめりこみ、中村はバイクや司法試験の勉強に専念するようになったからだ。

中村は口が悪くて、会うと「おう、このボケ!」というのがあいさつだった。が、実際は面倒見のいいヤツで、貧乏だった僕たち(仕送りがなくなると、空き瓶を集めた。たしか1ビン10円と引き換えてもらえた)が家に行くと、「腹減ってないか。いま親子丼つくってやるぞ」と、よくメシを食わしてくれた。

僕のことは、最初の印象から「無頼派」だと買いかぶってくれたようで、知り合いが増えると、僕を紹介し、そのあとで「俺は面白いヤツだと思ったんだが、どうだ、骨のあるやつか?」などと僕に聞くのだった。

「まあ、二流だな」中村が買いかぶってくれているのを裏切らないように、精いっぱい、ツッパって答えた僕(今だから言うけど、骨が折れたよ)。「無頼派」でも「硬派」でもなく、弱虫で泣き虫で、それを隠そうとツッパっていたのが本当の僕の姿だったのだ。

中村の家に、よく泊まった。必ず徹夜になった。2人とも大のバクチ好き、花札の「こいこい」の勝負で熱くなっていた。たいてい、この勝負は中村の勝ち。負けず嫌いの僕が、まだまだ、まだまだ、と繰り返し、気が付くと、夜が明けているのだった。

「チクショー、また負けたのか」。

賭け事の負けは即金払いで、サイフはすっからかん。中村はといえば勝ち誇った顔をし、タバコをうまそうにくゆらす。

「オラ、貧乏人、コーヒー、めぐんでやるぞ」

僕は、ギリギリと歯軋りしながら、ヤツがミルでひいてくれたコーヒーを飲むのだった。

あの当時の学生が住んでいたのは、たいてい6畳一間のアパートだった。ところが、中村が鼻高々に、「お前たち貧乏人とは違うぞ。なんと二間ある部屋に引っ越したんだ。おい、見にこいや」と言う。

もう一人、仲間の「坊ちゃん」(ボンボン育ちで、僕があだなをつけた。顔が似ているので、ドラえもんとも呼ばれた)と一緒に、新居を見に行くと、確かに二間だった。ただし、3畳二間だった。

「おい、これじゃ、かえって住みにくいじゃないか」と大笑いしたものだった。

僕も、入学したころは、弁護士を目指したが、あっという間に落ちこぼれて、女のコの尻ばっかり追いかけるようになっていた。

「お前は、どうしていつも違う女と歩いているんだ」。

中村がそう言うと、「モテナイ男はひがむな」と返していたけど、実のところ、僕もモテていたわけじゃなく、フラれてばかりだった。

「司法試験に受かったらな、ご令嬢さまからいっぱい見合いの話がきて、よりどりみどり。俺は、お前みたいに手近なところで捕まえないのさ」。

ヤツは、よくそう自信満々に言っていた。

中村に半分壊れかけたテレビをプレゼントしたことがあった。こっちにとっちゃ、粗大ゴミに出さなくてラッキーって感じだったんだけど、喜んでくれた。中村の部屋で、映りの悪いそのテレビを見ると、歌謡番組で中森明菜が歌っていた。

「だれ、これ?」

当時、人気絶頂だった歌姫を、中村は知らなかった。つまり、それほど試験勉強に没頭していたのだ。会えば、悪口の応酬ばかりしてたけど、「お前ならきっと通るよ」と内心、応援していた。

とはいえ、迷惑はかけっぱなしだった。社会人になってから、ますます飲んだくれた僕。ところが、金がないので、タクシーで家に帰れない。

「おい、中村、今○○にいるから、迎えに来てくれ!」

いつも、深夜1時、2時。多分10回じゃきかないだろうな。でも、一度もイヤな顔をしたり、断ったことがなかった。酔っ払いをバイクの後ろに積んで、自分の家へ連れかえってくれた。そして、朝になると、メシまで。

ここ10数年くらいは疎遠だったが、優しい奥さんをもらい、3人の子どもに恵まれ、幸せな家庭を築いていた。ヤツと会えば、いつだって、「青春」時代に戻れると思っていた。それなのに…。先に逝きやがって、大馬鹿野郎!

(平成15年8月19日記)


いまも、ヤツがベッドで闘っている姿を思い出す。無念だったろう。お前の分まで、俺は楽しく、めちゃくちゃ楽しく、生きてやるぜ!

(2004/10/31)

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