2008年2月11日月曜日

母との別れ

乳がんの肺転移で長く病床に伏していた母が7日午後9時15分、肺炎のため入院先の北海道小樽市の病院で亡くなった。69歳、あと2週間ほどで70歳の誕生日を迎える直前だった。
母のことは以前のブログ「『ダメ!』と言われてメガヒット」で何回か書いてきた。
「あと半年」(2005年12月1日)
「奇跡」(2005年4月19日)
「再・言わぬが花」(2005年4月18日)
9日お通夜、10日告別式、13日初七日、15日納骨を済ませたものの、残務整理などに追われる毎日。悲しんでいる暇がないようなスケジュールだが、もともと母のがんが再発してから5年、別れの日がいずれ来ることは覚悟していた。
そして、この5年、いつもこう思っていた。
「おかあさん、こんなに苦しい目に耐えているんだから、生まれ変わったら必ず幸せになれるよ」


亡くなる前日の朝、主治医から「危篤です」と連絡があり、急いで病院へ向かった。母はそのとき、目を閉じたままだったが、意識はあった。ただ、もはやしゃべることはできない状態だった。酸素マスクをしていたが、いつ息が止まってもおかしくないほどの、荒い、苦しい呼吸を繰り返していた。あまりの苦しみぶりに、いっそのこと、酸素マスクをはずして早くラクにしてあげたいとさえ思った。
僕の後、子供たち(母からは孫)4人が夜、病室に到着した。
「おばあちゃん、おばあちゃん!!」
子供たちが何度も、何度もこう叫ぶと、それまで閉じていた母のまぶたがはじめて開いた。そして、手足を動かしだした。言葉にはできないが、孫が来たことがわかったのだろうし、起き上がりたいと必死だったのだろうと思う。

主治医はこの日、僕に向かって「あの呼吸の状態をごらんになりましたか。今夜は越せないでしょう。残念ですが…」と宣告していた。だが、母は頑張った。夜を越え、朝を向かえ、そして昼、夕方、2度目の夜…と。最後まで、ずっと頑張り続けた母らしかった。

父と早くに離婚し、母ひとり、子ひとりで暮らしてきた。母の闘病生活のあまりの苦しさ、辛さを間近で見ながら、何度も「最後の親孝行。一緒に死んであげようか」という思いにとらわれたことがあった。
だが、見舞いに母のもとに行くと、母は「絶対、病気になんか負けるものか。頑張る」といつも前向きだった。僕も「そうだよ、絶対よくなるさ。負けちゃだめだよ」と激励した。仮に母が「こんな苦しいのはいやだ。もう死にたい」と漏らすような人だったら、僕は一緒に死んでいたかもしれない。だから母は僕の命の恩人でもある。

昨年の11月、主治医から「肝臓に転移している。あと半年」と宣告されていたから、母と会えるのも、あとわずかとわかっていたものの、まさか1月とは思ってなかった。
最後のお正月になると覚悟していたので、大晦日、元日と母を見舞った。このとき、母は好物の寿司を1人前、ペロッと平らげていた。「まだまだ、ごはんを食べられるから大丈夫」と思っていた。5日に見舞った母の妹によると、「いつもより大声で話していた。正月には、シゲがたいそう、親孝行して帰っていったとうれしそうだった」という。だが、それからわずか半日で急変してしまったのだ。

僕が夜、食事のため病室を離れた瞬間に、最期のときがやってきた。あわてて看護婦さんからの連絡を受け、病室に戻ると、母は虫の息だった。
「おかあさん、おかあさん、死んじゃダメだよ!」
この日が来るのを覚悟していた僕だったが、さすがに涙があふれてきた。母は僕の問いかけにかすかに反応したが、それも5分ぐらいだったろうか。呼吸をする間隔がだんだん長くなり、最後に2度、苦しそうに息をしたあと、ついに口を開かなくなった。
母との別れのときがやってきた。

ここ1年ほど、ずっとつけていた酸素マスクをはずしてもらった母は、それはそれは、安らかな表情だった。
「おかあさんは、よく頑張ったよ。すごいよ、立派だよ」

亡くなった翌日、湯かん(棺に入れる前、白い長じゅばん、着物、羽織に着替えさせ、化粧をする儀式)のため自宅にきた葬儀社の人が、あとで「あんなにきれいな顔のおばあさんは見たことがありませんでした。化粧も紅をすっと引く程度で十分でした」と言っていた。闘病生活中は、処方されたステロイド剤の副作用で、顔も醜くぶくぶくに太ってしまっていたが、息を引き取ってから、すーっと元の顔立ちに戻っていた。
担当してくれた看護婦さんは「いつも明るくて、『さあ、早く治療しようね』って前向きで、頑張り屋さんだった。だからね、尊敬してたんです」と話してくれた。母は寿命には負けたが、病気には決して負けなかった。

母と最後に話をしたのは、亡くなる6日前の1日の午後。東京に戻るため、病室を後にしようとしているときだった。

「会社はうまくいってるのかい。仕事、頑張りなさいね。おかあさんも応援してるから。陰ながらだけどね、オ・ウ・エ・ンしてるからね」

母の最後の言葉を、僕は生涯、忘れない。

(2006/1/17)

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